概要
和歌山県出身の学者で、粘菌や民俗学の研究で知られる人物。学者といっても大学その他の研究機関に籍を置いたことはなく、生涯在野の好事家として過ごし、作り酒屋を営む弟の援助で食べていた、いわゆる高等遊民であった。
語学に堪能で、英語をはじめフランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語、サンスクリット語など18~19ヶ国語を操ったと言われる。
専門分野は菌類・粘菌・淡水藻(これらは現在の分類体系ではいずれも植物には含まれない)といった隠花植物(胞子で繁殖する植物)であるが、熊楠の学風は「ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろう」とする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、植物学の範疇におさまらない曼荼羅のような知識の網が産まれた。
エコロジーや自然保護の先駆者としての評価も高い。その特異な人柄と業績が水木しげるや荒俣宏ら多くの著述家や創作者の関心を惹き、彼らは熊楠を題材とした著書を出している。
略歴
1867年和歌山城下の生まれ。父は和歌山有数の資産家で、酒造会社「世界一統」(元は南方酒造。現存)の創業者である南方弥右衛門。熊楠は幼少の頃から超人的な記憶力・理解力を持つ神童として名高かった。
中学校卒業後上京し、大学予備門を経てイギリスへ留学。留学中、東洋人なので何度も差別を受けたり、当人の喧嘩っ早い性格から様々な騒動を起こした一方、イギリスの識者からはその才能を高く評価された。また亡命中だった孫文と知り合い、意気投合するなどした。
1900年に帰国して田辺に定住。研究の傍ら、神社合祀令に反対運動を起こし、鎮守の森を破壊から守ろうとした。
1929年に行幸した昭和天皇を神島で案内を務め、お召艦『長門』の艦上にて粘菌や海洋生物について進講。天皇は熊楠に大変な好印象を持たれ、後に彼を偲んで「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という御歌を送った。天皇の作った歌に民間人がフルネームで登場するのはかなり珍しい。
1941年に田辺の自宅で永眠。
学問
和歌山の田舎に居ながら英国の科学雑誌に植物学、人類学、科学史分野の英文論文を盛んに発表。専門の植物学分野では粘菌のほか、顕花植物、菌類、藻類の研究にも打ち込んだ。ただし、粘菌を含む変形菌類は現在では植物の範疇には含まれないため、現代では生物学者として紹介されることの方が多い。また人類学・民俗学・仏教を中心とした宗教なども盛んに研究している。このように熊楠の研究分野は生物学の枠に収まりきらないことから、博物学者(ナチュラリスト)とされることも多いが、熊楠が活動したのは学問分野としての博物学が既に解体された時代である。
民俗学分野では特に男性同性愛や「ふたなり(両性具有)」に強い関心を持っていた。日本民俗学の父・柳田国男とも盛んに文通していたが、性文化への関心を強めていった熊楠と、平地農耕民に関心を絞っていった柳田とは、大いに学問の方向を異にしていた。それでも柳田は熊楠の資質を高く評価しており、「日本人の可能性の極限」と称賛した。
植物分類学の第一人者であった牧野富太郎とも文通があり、熊楠は牧野に標本を送り同定を依頼することもあったが、強烈な個性で知られる人物同士、必ずしも折り合いは良くなかった。牧野は日本中を植物採集に回っており田辺を訪れる機会もあったが、熊楠と会うのは拒否し、二人は一度も顔を合わせていない。
生前の熊楠は植物学者として扱われることが多かったが、現代では民俗学者としての熊楠に注目が集まることが多い。これは上記の柳田の称賛のほか、牧野の「(熊楠は)大なる文学者でこそあったが、決して大なる植物学者ではなかった」との評価が影響しているようだ。
エピソード
卓越した学識とは裏腹に奇行が多く、大酒飲みで極度の癇癪持ちであったことで知られる。その逸話のいくつかを述べる。
多汗症だったので裸で過ごすことが多かった。褌一丁で野山へ採取に行き、農村の娘を驚かせたこともある。ついた渾名が「てんぎゃん(天狗)」。
昼寝中に来客があり、「熊楠はいないよ」と居留守を使ったが、足が玄関から見えていたため即バレる。客人が「本当ですか?」と尋ねると「当人が言うんだから本当だよ」と答えた。
自由自在に嘔吐できる体質で、喧嘩の切り札に使った。
イギリス時代、知人に贈られた法衣と袈裟を纏って大英博物館に通ったことがある。
昭和天皇への新講の際、多数の標本をキャラメルの空き箱に入れて献上した。フタが開けやすかったため、もしくはボール紙製で軽かったためと云われている。ただし天皇が熊楠に好感を抱いたのは上記の通りで、講義の時間は25分だったが天皇の希望で5分延長された。侍従も後に「奇人変人の類と聞いて心配していたが、会ってみたら本当に紳士的な人だった」と語っている。また熊楠の方も帰宅後、恩賜の菓子を妻に持たせて記念撮影をしたり、知人に菓子を配ったりと喜んでいた。
幻覚や幽体離脱をしばしば経験しており、死後に自分の脳を調べるように言い遺した。そのため脳は大阪大学医学部に保存されており、MRI検査の結果海馬の萎縮が明らかになった。
親族
熊楠には一男一女がいたが、長男は高校(旧制)受験の後精神を病んでしまい、戦後暫くして亡くなったという。長女は長命であったが、子を残すことが無かったため、熊楠の直系は断絶した。ただし弟・常楠の子孫が現在でも続いており、実家南方酒造(世界一統)を継いでいる。
兄の弥兵衛(藤吉)が当初家を継いだ(この時点では酒屋を開業する前であった)が、父からは「好色淫佚放恣驕縦な者であるので、我が死んで5年内に破産するだろう」と予言され、その通り破産同然の状況に追い込まれたという。熊楠曰く「兄は下戸だが無類の女好き」であったという。
熊楠も父に「学問に一生を費やす」と看破され、結局父が兄に家督を譲った後に始めた南方酒造は弟の常楠が後を継ぎ、南方家の「本家」も父の遺言で常楠の家系ということになった。
兄弟仲は良かったり悪かったりといった具合で、熊楠曰く「弟は私の分の遺産も使い尽くしてしくった」と嘆いたが、対する弟の方は「兄の遺産は留学の支援をした時点で使い尽くされたと見るべき」と反論している。他に姉・妹、また他家に養子にいった末弟・楠次郎がおり4男2女の6人兄弟であった。
世界一統の現社長で、常楠の玄孫にあたる現社長・南方雅博氏は両備グループ幹部の子女と結婚している。なお偶然かその縁からなのかは不明だが、同じ和歌山で事業を行う和歌山電鐵も同グループである。
1895年頃に撮られたという、熊楠・常楠・楠次郎と当時日本に亡命していた孫文(加えて横浜華僑の男性)の写った写真が遺されている。写真中央の孫文は幼少の熊楠の甥(常楠の長男・酒造の三代目)常太郎を抱いて着座している。