概要
明治期から昭和戦後の長きにわたって活躍した植物学者。野草から栽培植物まであらゆる植物(現在では植物とはされない地衣類や藻類、キノコを含む)を研究した、当代の植物学の第一人者であり、新種や新品種など2500種類以上の植物を命名したことから「日本の植物分類学の父」と呼ばれる。
植物画(ボタニカルアート)の名手でもあり、著書の多くは自ら図版を手がけた。植物の単なる写生ではなく、その種の典型的な成長段階を巧みに描き分けた彼の植物画は「牧野式植物図」として知られ、江戸時代以来の本草図譜・草木図説のスタイルを脱却した近代的植物画を確立したとして評価されている。また、草木図説の著者であった飯沼慾斎の孫・飯沼長順とともに「増訂草木図説」を刊行し、図番の誤りを修正するほか、一部を書き加えている。
彼の手がけた「牧野日本植物図鑑」(1940年)は没後も改訂を重ねて山野草や園芸愛好家らに親しまれている。21世紀の現在では分子系統解析による植物の分類体系(APG分類体系)が確立し、牧野の時代の形態に基づく植物分類学は過去のものとなっているが、2017年以降の版ではAPG分類体系を取り入れる改訂がなされた。その版にはこれまで記されてこなかった大多数の種の植物が掲載され、更には図版も原色化された版も出ている。
略歴
幕末の1862年、土佐国佐川村(現高知県佐川町)で裕福な造り酒屋に生まれた。両親と祖父は早くに亡くなり、幼いころから草木に特別な興味を示していた。
他に兄弟はおらず、跡取り息子であったため、子どもの頃からいとことの結婚が決められていたが、「幼くして両親を亡くした子を早くから苦労させるのは忍びない」と祖母に庇われている事を良いことに山野を遊び呆ける日々を過ごしていた。10歳の時に寺子屋を経て藩校に通い、士族の子に混じって漢学や英語などの教育を受ける。
間もなく学制(義務教育制度)が施行され佐川にも小学校ができるが、藩校でレベルの高い教育を受けていた富太郎にはつまらなかったので2年で中退し、中退した小学校で臨時教員を務めながら好きな自然研究(植物を中心に地質や天文なども調べていた)に打ち込む日々を送った。郷里で勉強するだけでは飽き足らなくなり17歳で高知市に出る。高知では関根雲停に植物画を学び、当時土佐の若者の間で盛り上がりを見せていた自由民権運動にも加わっていた。高知で西洋の植物学を学び、日本中の植物を記載した植物図鑑を作る夢を抱いて19歳で上京。22歳で東京帝国大学の矢田部良吉教授を訪ね、植物学研究に没頭する。
婚約者に家業を押し付けて、東京の菓子屋で見初めた女性と暮らし、実家の金をとんでもない勢いで研究並びに恋人との生活に費す気ままな生活を送った。1887年に友人と「植物学雑誌」を創刊、その翌年、かねてからの夢であった「日本植物志図篇」の刊行を始める。牧野はこの出版のために神田の印刷工場に通って印刷技術を身につけており、絵も自分で描いた。印刷には多額の経費がかかったが、費用は実家からの持ち出しである。
東京帝大に出入りするようになる前から日本各地で集めた標本をロシアのカール・ヨハン・マキシモヴィッチに送って指導を受けており、1890年のムジナモの発見で世界の植物学界に名を知られた。しかし同年、牧野の不遜な態度を快く思わなかった矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられて帰郷を余儀なくされる。祖母は既に死去していたが、家業に無頓着な牧野の態度は変わらず、ついに実家を追い出される騒動に至る。
植物学教室と実家を追い出された事で、学問と生活の拠点を同時に無くしたため「日本植物志図篇」の刊行も中断してしまった。実家と縁が切れた事で、妾であったスエ(寿衛子)と籍を入れ多くの子どもをもうけるも、家庭を顧みなかったゆえに困窮する。それでも植物学の道を諦められずに足掻き、マキシモヴィッチを頼ってロシアに行こうとするも彼が亡くなり実現できなかった。
その後、牧野の学識を惜しむ友人らの助力で東京に戻り、松村教授のもとで助手として働くこととなる。松村との関係は険悪なままで、松村は牧野のことを「婆あ育ちのわがまま者で、頼んだことをやらない」と事あるごとに誹謗した。講師となったのは1912年、牧野50歳の時だった。1939年、77歳の時まで東京帝大に勤務していた。その翌年、研究の集大成として「牧野日本植物図鑑」を刊行する。
晩年は日本学士院会員、文化功労者など多くの栄誉に輝き、1957年(昭和32年)、94歳で死去。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された。
人物
若い頃はなかなかの美男子。自他ともに認める根っからのおぼっちゃま育ちで、常識や礼儀をわきまえない振る舞いからトラブルを起こすことが多かった反面、天真爛漫さや博識で多くの人に慕われた。膨大な借金で何度も窮地に陥りながらも、その度に支払いに名乗りをあげる人が不思議と出てきた。
小学校中退の学歴でありながら理学博士の学位を持っていた。学歴がなかったのは、牧野が植物への学識のみに価値を認め、他のあらゆる権威を認めなかったためである。植物に関しては牧野が日本で一番詳しかったから、牧野は自身が日本一偉いと思っていた。今より学閥の権威が強かった時代にこの不遜な態度は様々な軋轢を生じ、日本の植物分類学の第一人者であったにもかかわらず、東京帝大では最後まで教授になれなかった。牧野と同時期の東京帝大植物学教室に平瀬作五郎という人物がいたが、平瀬は正規の教育を受けなかったのにイチョウの精子発見という大きな業績を挙げたことが嫉妬され、激しい圧迫を受け退職に追い込まれたという。
植物学の啓蒙・普及活動に熱心で、講演会、観察会の声がかかれば(植物採集も兼ねて)日本全国に足を運んだ。牧野の茶目っ気あふれる語り口には不思議な魅力があり、年下や素人の相手にも全く偉ぶるところがなく真摯に対応したので、子供や若者、一般の植物愛好家には好感を持たれた。植物に詳しくない人から同じ植物の名前を何度も聞かれても丁寧に対応したという。新聞などが書きたてた松村教授らとの確執は世間のゴシップ的な関心を呼び、帝国大学教授を向こうに回して一歩も引かない「牧野博士」に大衆は声援を送った。
東京帝大の授業では遅刻するのも日常茶飯事、講義中に自作の川柳や都々逸を披露するという型破りなものだった。当時は大学に定年制がなかった時代であるが、それでも77歳まで勤務したというのは異例中の異例である。
「およそ植物学を学ぶものは、植物に関係する分野を全て学ばなければならない」という信念があり、物理学、化学、天文学、美術、数学、文学などを挙げている。実際牧野は和漢の古典や国語学にも詳しく、古典文学と草木を題材にしたエッセイも著している。牧野の命名した植物名はそのものずばりの即物的な命名か古典や地方名によったものが多く、後述のスエコザサのような私情を挟んだ命名は例外に属する。植物と直接関連する分野以外では音楽にも深い造詣を持っていて、当時は珍しかった西洋音楽を郷里に紹介し、楽団を率いていた時期もあった。
スエとは1928年に死に別れており、1927年に発見した笹(アズマザサ)の変種に苦労をかけた妻への感謝から「スエコザサ」の名を冠した。このスエコザサは、東京都練馬区大泉学園駅近くの牧野記念庭園に植栽されている。
このエピソードはよく知らない人からはイイハナシのように見える(実際このエピソードをもって牧野を愛妻家のように持ち上げる弁舌や人物評も多い)が、そもそも妻と子供たちに苦労を強いた元凶は牧野である。もちろん若い頃の研究と浪費で路頭に迷わせかけた実家の従業員たちや捨てた婚約者には何一つ報いることはしていない。
造り酒屋の生まれだが、昔の男性の一般的な嗜みだった(大正11年の未成年者飲酒禁止法前の日本では子供でも飲酒するのが当たり前だった)酒や煙草を好まなかったことを「私の健康に対して、どれほど仕合せであったか」などと誇らしげに度々書き記している(酒を飲まないことを誇るのは酒宴好きの文化がある土佐の男としてはかなり変わっている)。とはいえ下戸だったわけではなく、赤玉ポートワイン(サントリーの事実上の出世作となった大ヒット商品)程度ならたまに口にしていたらしい。
食生活はこの世代としてはかなりハイカラな嗜好で、毎日トマトに西洋酢(リンゴ酢かワインビネガーか)をかけて食べていたらしい。あまり好き嫌いはなかったが、牛肉が好物でよくすき焼きを口にしていた。甘いもの大好きで、菓子と砂糖を入れたコーヒーと紅茶を欠かさなかった。この生活習慣と、好きな植物三昧で(松村教授からの手ひどい嫌がらせを除くと)ノーストレスだったおかげか、80代前半までは病気しらずで、野山を歩くのも苦にしなかった。最晩年は大腸カタルや肺炎などを患い、なかなか外に出られなくなるが、それでも94歳という江戸時代生まれとしては特筆すべき長寿を全うした。
「雑草という名の草はない」は元は牧野の言葉である。昭和天皇の言葉としてよく知られているが、おそらくご進講に来た牧野の言葉の受け売りであろうと思われている。
没後
1958年、高知市の五台山に牧野の名を冠された「高知県立牧野植物園」が設立された。同園には牧野が生前に所蔵していた図書4万5000点も収蔵されている。付近には四国八十八箇所31番札所・竹林寺がある。
また、同年に牧野が生涯を通じて集めた未整理の植物標本約40万点を整理するため東京都立大学に牧野標本館が設けられたが、没後60年以上が経った今でも整理作業は完了していない。1991年の都立大移設に伴い標本館も移転新築され、研究室やギャラリーも併設されている。
関連作品
ボタニカ(朝井まかて、2022年、祥伝社)
牧野を題材とした長編小説。主人公として取り上げられている。同作では牧野の人としてアウトな側面(上述の無礼・不遜な態度、研究のために家業を傾かせ実家の従業員たちを路頭に迷わす寸前まで追い込む、祖母の決めた婚約者に家業を任せて植物研究の莫大な資金を出させていたのに東京で愛人(後の妻)を囲って子を産ませた上で婚約者をアッサリ棄てる、妻子(スエや娘)を棄てて独身と偽りロシアへ留学&亡命しよう(未遂に終わった)とする、さらに以上の自らの行為に罪悪感を抱くこともなく笑いを交えたネタ話にする、など)もかなりピックアップされている。
主人公・槙野万太郎のモデル。演じるのは神木隆之介。放送時間帯故にさすがに『ボタニカ』のような人としてアウトな所業は鳴りを潜めている。
関連タグ
野口英世、南方熊楠:牧野と同様、卓越した学識と愛嬌ある人柄で多くの人から愛された反面、破天荒な行動で数々の騒動を巻き起こした学者。牧野は熊楠とは学問上の交流があったが、あまり折り合いはよくなかったようだ。
伊藤若冲:江戸後期の絵師。牧野と同様、富豪の跡取りに生まれたが、生物を描くことに熱中するあまり家業を放擲した人物。