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野口英世

のぐちひでよ

日本の細菌学者。福島県出身。1876~1928年。
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経緯

福島県耶麻郡の三ッ和村三城潟(現:猪苗代町)に、父・佐代助と母・シカの間に長男として生まれ、当時は清作(せいさく)と名付けられた。

1歳の時に誤って囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、草深い農村であったために医者がおらず、母が膏薬を塗って付きっきりで看病したが、左手に指が動かせない障害が残ってしまう。
障害のために農作業が上手く出来なかったことから、母に学問で身を立てるよう諭され、後に優秀な成績を猪苗代高等小学校の教頭であった教育者の小林栄に認められ、彼の計らいで同校に入学する。
そこで彼は野口に左手の手術を薦められ、会津若松に向かった。
そうして向かった会津若松で開業していた、アメリカ帰りの渡部鼎医師の下で左手の手術を受け、不自由ながらも左手の指が動くようになり、この手術の成功に感激したことがきっかけで彼は医師を目指すようになったという。

その後、彼は自分を手術してくれた渡部医師が経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学び、彼の友人であった歯科医で高山高等歯科医学院(現:東京歯科大学)の講師であった血脇守之助とも知り合い、彼らの助力もあって順天堂医院の伝染病研究所で助手となり、この頃に名を「英世」に改める。

後にアメリカへ渡航し、ペンシルベニア大学医学部において助手の職を得て蛇毒の研究を行い、研究の成果を論文に纏め、この論文が同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士から絶賛され、野口は彼の紹介により一躍アメリカの医学界にその名を知られることとなった。

更に明治34年(1901年)に設立されたロックフェラー医学研究所へ入り研究を続け、多くの発見と功績から東京大学より理学博士の学位を授与され、ロックフェラー医学研究所の正員に昇進した。

人物

一般的には黄熱病梅毒の研究で知られる。幼少期に負った大火傷による障害を治療により克服したエピソードなどから特に子供向けの偉人作品で知名度が高く、2004年から発行されている千円札にも肖像画が描かれている。

ただし、梅毒スピロヘータの純粋培養、トラコーマの病原体特定など功を焦るあまり誤った発表を行い、後で否定された研究も多い。そのため知名度の高さに比べ科学史上での評価は高くない。また常軌を逸した借金や放蕩で恩人に多大な迷惑をかけたなど、子供向けの偉人作品では伏せられている事実も多い。

勤務していた伝染病研究所の蔵書を売り払って代価を女遊びに使い果たす、婚約者をだまして持参金をアメリカ渡航費に流用するなどといった、破天荒を通り越して人間的にはクズなエピソードには事欠かない。また研究スタイルとしても時代的・環境的制約があったものとはいえ、実験量一本やりの古いものでしかなく「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」というのは本人も認めている。

しかしながら、貧しい農家に生まれながらも、母譲りの努力と根気強さで研究を続け、多くの医科大学で名誉博士を受賞し、エクアドルを始めとする世界各国から勲章や表彰を受ける成果を出し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙げられるまでの名医・研究者となったという点では、素晴らしい大人物であると言えよう。

逸話

母のシカは野口が火傷を負ってから寝もやらずに観音経を一心に唱え、その後も合間をみては遠い隣村の十一面観音にお参りに行き、彼が学校の小林栄に手術を薦められて会津若松に向かった時も祈り続けていたという。
また、野口自身も研究の時も常に観音経を肌身離さず持ち歩き、『大仁院』という法名を持っており、彼が亡くなった際には故郷にある猪苗代湖に近い菩提寺に墓が建てられるなど、仏教に関わりが深いエピソードがある。

前述の通り、元の名前は「野口清作」であったが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』に野々口清作というろくでなしの医学生が登場するため、「モデルと思われてはかなわん」として改名したとされる。
しかし、時代がやや離れている(当世書生気質が連載されていたのは野口が小学生の頃)ことや、野々口が作者も忘れていたほどのチョイ役であったことから、これを疑問視する向きも存在する。

関連タグ

細菌
学者

北里柴三郎:師匠
志賀潔:先輩

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