概要
坪内逍遥(1859〜1935年)は主に明治時代に活躍した日本の小説家。本名は坪内雄蔵、別号に「春のやおぼろ(春廼屋朧)」「春のや主人」など。
最初の近代的な評論『小説神髄』において、今までの「勧善懲悪」の小説を否定し、写実主義の文学を提唱した。また写実主義理論の実践として『当世書生気質』を執筆し、近代日本文学の発展に貢献。他にもシェイクスピア全集の翻訳を達成していて、演劇改良運動にも功績を残している。
日露戦争物語にて「坪内逍遥は手塚治虫のようなパイオニアだった」とあるが、小説が「くだらないもの」とバカにされていた時代に、近代日本文学へのレールを敷いた人物といえるだろう。
美濃加茂市で生まれた逍遥。明治9(1876)開成学校普通科(のちの東京大学)に入学。同期の高田早苗の影響で、東洋文学だけでなく、西洋文学も読みあさるようになる。
明治13年に母が、明治15年に父が亡くなり、翌年に逍遥はフェノロサの政治学試験の落第。逍大学の費用を自分で稼ぐことになった。逍遥は下宿屋に塾を開き、予備校で英語を教え、新聞に原稿を書いて日銭を稼いだ。
苦労を重ねながらも、明治16年(1883年)、東京大学文学部政治学および理財学科を無事に卒業した逍遥は、高田早苗に勧誘され、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師になる。
明治21年(1888年)、今後は演劇改良事業に貢献することを決意して、明治22年(1889年)に「細君」を「国民之友」に発表した後は、小説の執筆を辞める。以降は劇作家・翻訳家として活動するように。
明治23年(1890年)には逍遥の尽力のおかげで、東京専門学校に文学科が新設され、翌年の明治24年(1891年)には文芸雑誌『早稲田文学』を創刊。
逍遥は『早稲田文学』と『しからみ草紙』(森鴎外が主催した文芸雑誌)を舞台にして、森鴎外と「没理想論争」を繰り広げる。没理想論争は近代日本最初の文学論争であり、テーマは「シェイクスピアの文学に理想はあるのか?」ということだった。坪内逍遥は〈没理想〉の写実主義の立場、森鴎外は〈理想〉の浪漫主義の立場をとった。
晩年は大正9年(1920年)に熱海水口村に造成した別宅「双柿舎」で過ごした逍遥。昭和10年(1935年)2月28日、風邪から気管支カタルを併発して死去。
主な作品
- 『小説神髄』
- 『当世書生気質』⋯二葉亭四迷の『浮雲』に影響を与えた作品。
- 雑誌『早稲田文学』
- 『シェイクスピア全集』