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ジャン・アンリ・ファーブル

じゃんあんりふぁーぶる

フランスの教師・博物学者・詩人・音楽家。『ファーブル昆虫記』で知られる。
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概要

フランス博物学者で『ファーブル昆虫記』の著者(1823年12月21日~1915年10月11日)。
座右の銘は「さあ働こう(Laboremus!)」

経歴

1823年、サン・レオンプロヴァンス地方の村)で生まれる。
父・アントワーヌは定職に就けず、4歳から7歳までマラヴァルにある祖父の家に里子に出された。マラヴァルは自然豊かな山村で、ここで自然、特に昆虫に対する興味を培った。
実家に戻った後も生活は貧窮し、教会聖歌隊に加わることを条件に無償で中学校に進学するなど苦労が続くが、学業成績は極めて優れ特にラテン語が得意だった。ラテン文学黄金時代の詩を原文で読み、ウェルギリウスらの作品に心酔する。
1838年、ついに一家は離散し、ファーブルは飯場に泊まったり野宿をしたりの労務者生活を送る。

1840年、アヴィニョンに滞在中、師範学校給費制特待生を募集しているのを知り、受験したところ首席で合格。
飛び級で1年早く全課程を修了したため3年目は給費を受け取りながら好きな事をして過ごした。首席で卒業し、小学校教員となる。

1844年よりビクトル・ユーゴー学院に勤め、2歳年上のマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと職場結婚する。安月給のため生活は苦しかった。
1848年、中学校教員免状を取得し、僻地手当を目当てにコルシカ島の中学校に赴任する。モキャン・タンドンが植物の研究ため島を訪れ、ファーブルが島内を案内する。タンドンに勧められ、ファーブルは動植物の研究を生涯の仕事とすることに決める。

1850年、病気療養のためアヴィニョンに戻り、高校教員となる。
ある時、督学官ヴィクトル・デュリュイがファーブルの勤める高校を視察に来る。

ファーブル「自然科学研究に専念するため大学教授になりたいがどうすれば良いでしょう?」
デュリュイ「財産基準を満たせなければ大学教授にはなれない。私も家が貧乏なので教授は諦めて役人になりました」
ファーブル「金持ちでなければなれませんか?」
デュリュイ「そうです」

1861年、ファーブルは高校教師の傍ら博物館の館長として働く。子どものための科学の本を書いたり、日曜学校の講師をしたりと、収入を得るのに必死だった。
1866年、財産を築いて教授になるため地元の産業であるから染料アリザリンを抽出する研究を続け、翌年には事業化に向けて一定の成果を収めるが、BASF社(ドイツ)が石油からアリザリンを合成する技術を発見したため事業から撤退を余儀なくさせられた。
1868年、ファーブルの研究に対し、文部大臣になっていたデュリュイはレジオン・ド・ヌール勲章授与を決めた。乗り気でないファーブルに対し「受け取らなければ憲兵を嗾けて逮捕させる」と脅し、ナポレオン3世に拝謁させた。

この年、ファーブルはサンマルシャル礼拝堂の日曜学校で植物の受粉について講義したが、宗教右派から卑猥な言動として攻撃を受け、教員を辞した。教職を追われたファーブルは知人のジョン・スチュアート・ミル(イギリスの哲学者)に借金し、家族を連れてオランジェに引っ越す。

1870年、普仏戦争勃発。セダンの戦いでナポレオン3世が捕虜となり、第二帝政が終焉。第三共和政の時代となる。
1871年、パリが陥落し、普仏戦争でフランスが敗北。
1878年、学術論文ではなく平易な一般向けの「読み物」として記された『昆虫記』第1巻を執筆する。

1879年、家主がファーブルの気に入っていた美しい並木を伐採してしまったのに腹を立て、セリニャンの村はずれに小さな畑のついた家を買い「アルマス(荒れ地)」と名付けて引っ越す。ここが終の棲家となる。
1885年、妻マリーが死去。
1887年、家政婦として身の回りの世話をしていたジョゼフィーヌ・ドーテル(23歳)と再婚する。39歳の歳の差婚を村人たちはこころよく思わず、庭に石を投げ込まれたりした。
1909年、『昆虫記』第11巻の執筆を開始。しかし体の衰えが目立つようになり中断する。
1910年、『昆虫記』第10巻が発刊される。レーモン・ポアンカレ大統領はファーブルに2度目のレジオン・ド・ヌール勲章を授与した。
1913年、後妻ジョゼフィーヌが死去。ポアンカレ大統領がアルマスを公式表敬訪問。
1914年、第一次世界大戦が勃発(~1918年)。親族の多くが出征する。
1915年、尿毒症のため死去。享年91歳。
 

余談

  • ファーブルは優秀な教師としてフランス中に知られ、教え子からは数多の才能が輩出した。
  • 最初の妻マリーとの間に7人、後妻ジョゼフィーヌとの間に3人の子を儲けたが、ほとんどが自分より先に死去。
  • チャールズ・ダーウィンと親交があったが、ファーブルはカトリック信者で進化論に否定的であった。
  • 1890年頃からプロヴァンス文学復興を目指すフェリブリージュに加わり、機関誌「プロヴァンス年鑑アルマナ」に詩や歌を寄稿。音楽理論は少年時代、聖歌隊で学んだ。
  • ファーブルは虫の声を「音楽」であると高く評価していた。
  • 昆虫愛にかけては右に出ないファーブルであるが、捕殺に関しては(生態系への過干渉を除き)苦言を呈したことはない。
  • 『昆虫記』には古代ローマの文献から興味を持ち、セミカミキリムシの幼虫の試食会を開いたことが記されている。
  • イギリス、ドイツ、オランダなどでは生前から知名度が高かったが、本国フランスでは現在もあまり知られていない。せいぜい「虫のオッサン」くらいの認識である。日本で言うと「二宮忠八について語れ」位のレベルである。
  • トリビアの泉』にて、「庭の鳥がうるさかったので鉄砲で撃ち殺した」という過激なエピソードが紹介されたことがある。


創作でのファーブル

日本では本国フランスより知名度が高く、昆虫に関するキャラクターとして登場することが多い。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。(ラヴヘブンの世界には少年の姿で召喚されている。)

関連項目

博物学 偉人 苦労人 ファーブル

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