概要
チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809年2月12日~1882年4月19日)
イングランドの自然科学者・地質学者・生物学者。自らは地質学者を名乗っていた。
略歴
1809年2月12日、シュロップシャー州シュルーズベリー(イングランド)に生まれる。父ロバートは医師で投資家、母スザンナは陶芸家・企業家として知られるジョサイア・ウェッジウッドの娘で、非常に裕福な家庭で育った。
1825年、医師になるべくエディンバラ大学に進学するが、血を見るのがダメで医師の道は諦める。エディンバラ大学でラマルクの進化論に触れた。
1827年、牧師になるべくケンブリッジ大学で神学、古典、数学を学ぶ。
1831年、大学卒業後、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船し世界を一周。航海中訪れたガラパゴス諸島で、誕生から歴史の浅い島の生物の多様性に驚く。
1836年、イギリスに帰国。ビーグル号での航海中に集めた標本を整理しつつ、航海記を執筆。
1839年、従姉のエマ・ウェッジウッドと結婚。『ビーグル号航海の動物学』の出版が始まる(~1843年)。
1842年、『ビーグル号航海の地質学』を出版。
1856年、アルフレッド・ウォレスとほぼ同時に自然選択説に到達。
1859年、『種の起源』を出版。学術の世界を超えた大きな反響を呼ぶ。
1877年、ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られる。
1882年4月19日、ケント州ダウン村の自宅で死去。
ダーウィンにちなんだ命名
ダーウィン市 チャールズ・ダーウィン大学 ダーウィン・フィンチ ダーウィン山 ダーウィンズ・アーチ
ダーウィン賞 ダーウィンが来た! 教えてダーウィン ダーウィン・ビートル
フィクションにおけるモチーフ
ダーウィン魂(仮面ライダーゴースト 100の眼魂とゴースト運命の瞬間)
「宇宙船ビーグル号の冒険」…上記研究航海をオマージュしたスペースオペラ。
余談
- 自然選択説に基づく進化論を提唱し、生物学・社会科学および一般思想界にも影響を与えた。
- フジツボの分類、珊瑚礁の形成、ハトの飼育品種の改良、ミミズによる土壌形成などの研究でも業績を残している。
- 2000年にイギリスの10ポンド紙幣に肖像が描かれた。
- 偽ダーウィンの発言:「進化では強いものではなく、適応(変化)するものが生き残る」という趣旨なのだが、もちろんダーウィンはそのようなことは言っていない。詳細は進化論の記事を参照。
- 自然選択説を曲解した『社会ダーウィニズム』は自由市場の発展に関する適者生存の概念、人種差別的な進化観などに使用された。
- 2020年6月、自由民主党の広報twitterアカウントに投稿された憲法改正漫画(リンク)において、社会ダーウィニズムと偽ダーウィンの発言(上記参照)とそれを改憲にこじつける斜め上の主張の3連コンボが繰り出され、ネット民を騒然とさせた。研究者たちも反応し、6月27日、日本人間行動進化学会 (HBES-J) 理事会から声明が出されるに到った(「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明」)。
- ちなみに「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き残るのではなく、生き残るのは変化出来る者である」と云うのは、元々は19世紀のロシアの無政府主義者によるダーウィン解釈であり、ここで言う「変化出来る者」とは「自発的に他者と協調出来る者達から構成される集団」つまり「人間であれば無政府主義社会を存続させる事が可能な集団」の意味である。
- 更に、それを20世紀前半のアメリカの自由主義経済学者がパクって広めてしまった。
- 要は政権与党の広報が「政府など要らない」と主張している者が言い出し「政府の存在は許容出来るが、政府の機能は小さければ小さいほど良い」という主張をしている者が広めた台詞を「ダーウィンはこう言っていた」と言って拡散してしまった訳である。
- 「神による世界設計」というキリスト教の世界観を否定したダーウィンだったが、キリスト教の信仰は堅持していた。アメリカの植物学者エイサ・グレイ宛ての手紙で寄生バチのヒメバチを例に挙げ「毛虫を体内からむさぼり食べる冷酷非道な生物を慈悲深い全能の神が創造されるはずがない」と述べている。
- 英語で進化を意味する「evolution」は実は元々は「獲得形質の遺伝による進化」を唱えたラマルク説で多用された用語であり、「種の起源」ではかなり後の版になってようやく使われるようになった。(ダーウィン進化論を唱え始めた頃のダーウィンは「進化」ではなく「変化を伴なう系統」などのもって回った表現を使う事が多かった)
- なお「種の起源」の各版その他のダーウィンが残した文書を見る限りでは、ダーウィンが「適者生存」「自然選択」のメカニズムこそ唯一の進化のメカニズムだと考えていた時期は「evolution」という言葉を使わず、逆にラマルク的な進化も有り得るかも知れないと考えていた時期には「evolution」という言葉を多用する、という傾向が見られる。