概要
幕末期の医者で植物学者でもあった飯沼慾斎(1783~1865)の著書で、岩崎灌園の本草図譜とともに江戸時代の2大植物図譜として知られる。
特徴
リンネの分類法にもとづいてわが国の植物を分類し科学的に観察・図記した、我が国最初の近代的な植物図鑑である。
慾斎晩年の作品で、美濃国の平林荘に隠居して執筆したものである。慾斎は老いてますます盛んに植物の研究を進めていた。
本草書的な考証や伝聞は省略し、標本ではなく自らの観察によって確認できた舶来種を含めてわが国に産する草本植物およそ1200種やや木本植物およそ600種を記載している。「自らの観察による」という姿勢は徹底したもので、掲載されている植物の中
には、慾斎自作の温室で栽培したものもある。
全巻合わせて40巻になると推測され、草部が20巻、木部が10巻、禾本(イネ科やカヤツリグサ科、ヤシ科の単子葉植物の総称)・無花部(コケやシダ、キノコなど)が10巻という構成である。
飯沼の死去までに一度草部が刊行され、この草部は明治期に二度復刻された。明治初期に農学者の田中芳男が「新訂草木図説」の名称で復刻した。
ついで明治末期から大正初年に牧野富太郎が「増訂草木図説」の名で再出版し、牧野によって一部図版や解説が加えられている。
木部は長く稿本として残っていたが、昭和52(1977)年になって、図鑑の出版を専門とする出版社の保育社から2冊に分けて刊行された。
禾本・無花部は現在に至るまで一度も刊行されず、稿本として愛知県の旧家の江崎家に残るのみである。
写生図は全体図のほか、花や実は自作の顕徽鏡によって観察し、拡大図や解剖図を付し、いずれの植物の図も一部は彩色されている。全体図は墨摺りとし、葉の表面を黒くして葉脈を白く浮き出させる表現を採用した。葉の裏面はこの逆で、葉脈を黒くしている。
また、葉脈の状態を詳しく解説するために、葉に墨を塗って紙に押し付ける印葉図と言う手法を用いた。この図法は尾張で考案され、慾斎と同時期の植物学者である伊藤圭介(1803~1901)もこの手法を用い「植物図説雑纂」「錦窠植物図説」(錦窠は伊藤圭介の号)を執筆している。
また、植物ごとの名称も、「本草図譜」と同じように和名や漢名、オランダ語での名称を記載している。
学名は伊藤圭介の著書「泰西本草名疏」(ツンベルクの「日本植物誌」をアルファベット順に整理し、和名を書き込んだもの)を元に書き記している。元々は慾斎はアルファベットで記し、横に片仮名で読みを記す予定であったが、予算の都合上学名も片仮名で記した。
明治期に出版されたものは学名がアルファベットで書かれており、牧野の手による復刻版は原著を尊重しつつも、新しく命名しなおしたか、あるいは修正したものを記載している。
引用書には伊藤圭介や宇田川榕菴などの日本の書物のみならず、西洋の本草学者であるホッタイン(1720―1798)、ドドネウス(1517―1585)、オスカンプ、キニホフ(1704―1763)、ウェインマンの植物学書が利用された。
現在では、本書に記されている学名とはほとんどの植物が程度の差はあれど異なっている。
それでも、本書は日本最古の近代的な植物図鑑として歴史に残っている貴重な書物であることは否めない。
現在は、いずれの版も国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能である。また、「木部」の稿本も国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能である。