誘導
文豪とアルケミストに関しては柳田國男(文豪とアルケミスト)を参照のこと。タグに関しても文アルの方を使用することを必須とする。
曖昧さ回避
柳田邦男:栃木県出身のノンフィクション作家
柳田邦夫:鹿児島県出身のジャーナリスト
人物
1875年(明治8年)7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)に儒者で医師の松岡操、たけ夫婦の6男として生まれる。幼い頃から恐ろしいほどの記憶力を誇っていた。また、何度かフラッと姿を消すこともあった。
1887年(明治20年)に茨城で医者をしてた兄・鼎のもとに暮らし、近くの寺の子供を殺す母親の絵馬を見て、一生もののトラウマになった。
成長した國男は東京帝国大学法学大学に入学。卒業後は農商務省に勤め、農村の生活向上のための調査を続けた。
また、詩人としても活動し、森鴎外・国木田独歩・島崎藤村などの文豪とも交流・親交を深めた。
1901年(明治34年)に柳田家の養嗣子になる。養父直平(旧・飯田藩士 / あの、飯田線の飯田。咲の風越女子高がある)は大審院判事。
1909年(明治42年)に宮崎県椎葉村を訪れた際に、現地に残る古い慣習や伝統に強い関心を覚え、『後狩詞記』を記した。
この頃、東北地方の岩手県の作家・佐々木喜然と知り合い、故郷・遠野の伝統や伝承に関心を抱き、自ら遠野を訪問。1908年(明治41年)に「郷土研究会」を発足し、雑誌『郷土研究』を刊行。
1910年(明治43年)に『遠野物語』を出版。日本の民俗学の黎明となった。官僚の人で農政に骨を折ったが、民俗学においては民衆の目線で、「本に書かれた歴史は官吏の書いたものであるから信用できない」というスタンスをとった。
政治官僚として活動の一方、学者としても活動し、南方熊楠や折口信夫とも交流。戦後も民俗学研究を続け、最後の枢密院顧問も務めた。
1962年(昭和37年)8月8日に、心臓衰弱のため自宅で死去、享年87歳。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑。
柳田民俗学
柳田は文献史料だけにとらわれない現地調査を徹底し、民衆に伝わる埋もれた伝承や伝説、伝統を研究。いわゆるフィールドワークのスタイルを大事にした。
カタツムリの呼び名の地方での違いから、方言の比較研究を進め、『蝸牛考』で近畿を中心に方言の新旧の分布と広がりを論じた「方言周圏論」を確立した。
1898年(明治31年)に柳田が愛知県伊良湖岬の浜辺を訪れた際にヤシの実が流れ着いているのを見つけ、そこから日本人の祖先は黒潮に乗って南方からやってきたのではとする研究を始め、学説『海上の道』を思いついた。またこのヤシの実の話を聞いた島崎藤村は童謡『椰子の実』を思いついた。
日本の民俗学を確立した一方で、柳田個人の意向で意図的に切り捨てられた分野もある。漂泊民、被差別部落、非稲作民、性愛、同性愛などの研究はされなかった。