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憑霊信仰論

ひょうれいしんこうろん

人類学者小松和彦による、憑きもの研究書。正式名称は『憑霊信仰論 妖怪研究への試み』である。
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概要

憑き物筋 に関する本。著者の小松和彦は後に某NHKMAG・ネットとやらいうサブカル番組で、「今大流行の東方projectと言う 妖怪が可愛い女の子になって登場するゲーム」についてコメントを求められて答えている。


説明

本書は柳田国男、速水保孝、石塚尊俊らによる憑きもの研究を「人間に害悪を及ぼすものだけに限定している」として厳しく批判すると同時に、人類学で単なる「possession」の訳語として「憑きもの」の語が用いられてきたことにも警鐘を鳴らし、憑き物が全部「俺、参上」と言うトランス状態を伴う憑依だけではなく、取りついた何者かが、「オラオラオラオラオラオラァ!」とやっているのを取りつかれているものも見ている場合、それらのデフォルトである「行き場のないやる気が充満している」状態を鑑み、「Stigma(ある集団の中での特別視の言訳になる印)」ではないかと言う論を展開している。


そういう訳なので憑きものの範囲が極めて広くなり、例えば座敷童は家(家屋の方)に憑くという点で憑きもの筋と類似した面を有するものの、それはプラスの影響を人間に与えるという点から、石塚らの提示した憑きものとは別種だと述べている。

 小松は「憑きもの」という単語について、「つき(=ツキ)」という日常とは別の理解できない状態にある人間を何とか説明付けようとする際に、便宜的に「もの」という単語を語尾に付与することで、人間は<日常+α>の力を与える非日常な存在(幸運の女神、もしくは犬神といった憑きもの筋に現れる憑きものなど)を空想し、心の安定を得ると考えた。


この考えから、小松は「憑きもの」という単語について、「もの」は本質的な意味を有さず、「憑き(=ツキ)」の部分だけが意味を有すると述べている。彼はこうした非日常に何とか説明を与えようとする人間の心の働きを「説明体系」と名付け、この中で「嫉妬」から起こる「マナが過剰についている」という説明体系の発現が日本における憑きもの筋の本質であり、石塚の第二期入村者説は限定的な面を見ているに過ぎないと批判した。あの『鬼灯の冷徹』で葉鶏頭や補佐官殿が一種異常な能力を持っているので、一子&二子が寄ってくるとか。


 で、憑き物=コミュニティから蔑視あるいは「そこにシビれる!あこがれるゥ!」と言われる言訳である「聖痕」(中二病の人がメアリー・スー書くと「美観を損なわない何ぞの傷」が出てしまう)は、元々どっかから勝手にやってきて勝手についた人へ居座っているので、初期の空条承太郎のような、「悪霊あるいは邪気眼が勝手に動く」という「妖術(witchcraft)」と、病気の治療とかも可能なので修行して物質化つうか「式神」という具体的なものになってるけどマナのコントロールができるようになった人為的な「邪術」(sorsery)に分かれる。文化人類学的には「正義の邪術師」はオセアニアでは普通。アフリカの邪術師はちゃんとコミュニティをいびってるんだよ。で太平洋行った先生方が安倍晴明みて、「ソーサラー」に定義しちゃったという複雑な事情が、この場合キリスト教の迫害は関係ないと思う。


 本書は今日の人類学において憑きもの研究のバイブルとされ、多くの研究者に「説明体系」のパラダイムが受け継がれている。 が、本書で展開する「マナで説明される大和魂」は折口信夫以来のこのスジのデフォの筈であるが、この辺先生方は無視している。わけの分からんところで、夢枕獏がこの著書(いざなぎ流の術者とか)をネタに本を書いている。


しかしながら、民俗学の方面からは少なからず批判が噴出していることもまた事実である。例えば、小松の提示する「説明体系」も、憑きものに限らず人間社会の習俗において、人々が理解の外にある事柄に、伝説神話を踏まえて何らかの「説明」を行おうとしてきた事例は枚挙に暇が無く、日本における憑きもの筋問題の根底にも「説明」が有ったことなど、柳田による初期の研究から理解されている。そうした上で柳田、速水、石塚らが憑きもの筋問題に真っ向から取り組んだのは、ひとえにそれが婚姻を中心とした重大な差別に繋がっており、そうした差別の解消を願ったからであった。具体的に述べると、石塚は、闇雲に「憑きもの筋という差別は駄目だ」と触れ回るだけでは効果が無いと考えており、出雲地方や高知県西部の憑きもの多数地帯で憑きもの筋が語られる原因について、第二期入村者説という明確な論理を述べるに至ったのである。また、小松は石塚の憑きもの理解を限定的だと批判しているが、石塚は『日本の憑きもの 俗信は今も生きている』の中で、少なくとも「自然に動物が憑くもの」、「人に使役された動物(東北のクダ狐など)が憑くもの」、「家に憑いた動物が自然と憑くもの(いわゆる憑きもの筋)」の三種類を想定しており、その中でも憑きもの筋だけを採り上げるのは、憑きもの筋問題に付随する社会的緊張を解消するためであると明言している。加えて、家に憑く憑きものが家主に幸福をもたらす時もあれば災いをもたらす時があることにも言及するなど、小松の言う「プラス」の憑きものを慮外のこととしていたわけではない。また、柳田や折口信夫、谷川健一らが憑きものの具体的事例に大きな関心を寄せたのは、憑きもの(特に憑きもの筋)が生まれ、受け継がれた経緯や背景にこそ日本文化の本質があったとする考えからであり、憑きものが語られるコンテクストや社会学的意味に着目した小松の研究とは少し観点が違っている。そのため、憑きものとして憑いている具体的な「もの」を徹底的に研究した民俗学の功績を、一言で切り捨てることは出来ない。


 説明体系なので、柳田「巫女考」とか水木とかは、憑き物のモデルであるトガリネズミ系を野生の憑き物と言い張ったという、「囲炉裏端とか草葺き屋根の上とか稲わらを積んだところでまったりする野良憑霊」の伝承を報告している。


 谷川健一説では鎌倉時代までの憑き物は「のような霊」であったが、のちもふもふするようになったという。(なので、憑き物はトガリネズミだとかとか言いながら胴が長い)また、谷川が蛇霊であったとするスイカツラ(葛系のつる植物みたいなのとかだったらしい)を、水木しげるはコロコロしたものとして描いている。


で、だ

 興味のある人は近くの図書館へGO!他にはいざなぎ流の研究とかも有名だぞ(´∀`)。文庫版はおまけで「熊野の本地」を巡る憑依&呪詛の話と、器物に関する憑き物の論が併録だ。

 なお高知県 物部村の太夫と呼ばれる式神使いは、大昔はポケモン大戦のような式神大戦をしていたそうであるが、普通に廃れたので、小松先生がフィールドワークした際は、ちゃんとした最強の式王子が判らなくなっている。また、こんなん描いてる小松和彦は、丸尾末広の、痛快アクションマンガ『犬神博士』の解説も書いている。

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