背景
近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、朝鮮の三・一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。
まず新文化運動・白話文運動を挙げることができる。これらの運動は1910年代に起こってきた啓蒙運動で、陳独秀、李大釗、呉虞、胡適、魯迅、周作人などが運動のオピニオンリーダーであった。彼等は『新青年』や『毎週評論』といった雑誌を創刊し、それによって新思想を鼓吹した。すなわち全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などがその内容である。この運動を経た後だったからこそ、五四運動は抗日感情が高まっていながら、義和団の乱のような剥き出しの暴力性・宗教性をその性格としなかったのである。
狭義には五四運動に含まれない「背景」ではあるが、両者は密接に関連している事から、広義に文化的「側面」としてこれらも五四運動に包含し五四新文化運動と呼称する場合もある。
経緯
大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、その少し前に朝鮮で起きた三・一独立運動の天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をした。デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなど、暴徒化した。
袁世凱の後継者である北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し、事態の収拾に努めたが、北京の学生はゼネラル・ストライキを敢行、亡国の危機と反帝国主義を訴え、各地の学生もこれに呼応して全国的な抗日・反帝運動に発展した。労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、6月10日には最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日に中国政府はヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。
影響
袁世凱によって地位を追われ、日本に亡命後、広州で護法運動を展開していた孫文が五四運動を期に、自信を取り戻したといわれている。やがて彼は1923年にはソ連の援助を受け、反帝国主義・資本節制・土地改革を主張するようになる。
評価
五四運動は、中国共産党と中国国民党に高く評価されてきた。中国国内の研究蓄積は他国の追随を許さない。しかし、政治イデオロギーに縛られ硬直した部分があるのも事実である。中国大陸では、五四運動をナショナリズムが真に大衆化した転機として捉え、中国現代史の起点をここに置いている。すなわちストライキやボイコットといった運動手法を積極的に利用した五四運動に高い評価を与えているのである。これは、1921年、中国共産党が五四運動の影響から誕生したことも大きく関係している。こうした中国共産党的歴史観を革命史観ともいうが、この史観は、一時期の日本にも多大な影響を与えた。
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