概要
|
|
---|
中華人民共和国広東省の雷州半島な南に位置する海南島と付属の島嶼からなる。ほかに中国が領有権を主張する南シナ海の西沙諸島、南沙諸島、中沙諸島もこの省に属する。
海の風景で広く知られ、人気の観光地である。有名な中国のアーティストグループ・同人サークル「戈戈圈」も海南省の陵水は出身だ。
海南島の北部は亜熱帯、南部は熱帯に属し、バナナ・ココヤシ・コショウなどの熱帯作物の栽培が盛んである。熱帯に属する三亜市周辺の海岸は、年中海水浴に適した気候であり、俗に『中国のハワイ』ともいわれ、海浜リゾートを中心とした観光業が盛んである。瓊海市にあるリゾート地ボアオ(博鰲)では2001年以降、毎年ボアオ・アジア・フォーラムが開催されている。
海南省の総人口は約1,027万人、漢族が大部分を占めるが、黎族が160万人、苗族が6.1万人、チワン族 (壮族) が5万人、回族が8,372人と続く。
1988年、第7期全国人民代表大会の第1回会議で海南省と経済特区の設立が決議され、海南省は中華人民共和国30番目の省となり、中華人民共和国で最も若い省になった。2018年、中華人民共和国国務院は海南自由貿易港の設立を承認し、経済・行政に関する独立した立法権を認められ、特別な管轄権を与えられた。2023年から、海南省は全島な税関を封鎖のプロセスを開始し、中国内地の非海南島地域との税関の準管轄制度を実施し、独立した税制・自治管理・特別な法律・専用の出入国ポイントなどの採用が認められ、2025年末までに達成される見込みであり、海南省の新興経済体系な入りを目指す。
歴史
上古
海南の歴史は旧石器時代初期まで遡ることができます。最も古い人類の活動遺跡は、三亜のロビタン洞などの古代の人類文化遺跡であり、これらの遺跡から多くの石器や陶器の破片が発見されており、海南島の石器時代の研究に貴重な情報を提供しています。
先秦
海南の先住民は周朝に、自然条件の変化により、段階的に平野、台地、河岸、湾岸地帯に移住し、原始農業、手工業、狩猟、漁労、採集活動に従事し、海南の文明を築きました。中でも黎族の先祖は華南や東南アジアから海南島に移住し、ここに定住し繁栄しました。
秦
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、嶺南地域に桂林、南海、象三郡を設置しました。海南は象郡の外に位置しています。
漢
西漢の初期、海南は南越国に属していました。漢武帝の元鼎六年 (紀元前111年)、路博徳が南越を平定しました。翌年、元封元年に海南に珠崖郡 (現・海口市) と儋耳郡が設置されました。漢昭帝の始元五年 (紀元前82年)、儋耳郡が廃止され、珠崖郡に編入されました。漢元帝の初元三年 (紀元前46年)、珠崖郡が廃止され、朱崖县に改称され、合浦郡に属しました。東漢の建武十九年 (紀元43年)、光武帝が伏波将軍の馬援を派遣して交阯を平定し、珠崖を鎮撫し、珠崖县を設置しました。
東漢には漢朝の人々が南沙群島を発見しました。これについては、東漢の楊孚の『異物志』、三国時代の万震の『南国異物志』、東吳の将軍康泰の『扶南伝』などの書物に記録が残っています。
魏晋南北朝
三国時代、東呉の皇龍3年 (紀元231年)、呉の大帝孫権は兵を送り交州を平定した。赤烏5年 (紀元242年) に将軍聶友と校尉陸凱が3万の兵を率いて珠崖と儋耳に遠征し、珠崖郡を再設し、交州に属させた。
晋太康元年 (紀元280年)、珠崖郡を廃止し、その地域を合浦郡に統合した。
魏晋南北朝の南朝宋元嘉8年 (紀元431年)、珠崖郡を再設し、徐聞に治めたが、間もなく廃止された。
斉は宋を模倣して置かれた。南朝梁の大同 (紀元535~546年) の時、儋耳の旧地に崖州を立て、広州都督府に属させた。
黎族の首領である冼夫人は海南の各民族な部族を梁朝に帰属させた。
侯景の乱の時、冼夫人は兵を率いて高州刺史の李遷仕を破り、都督の陳霸先と連合して広東の反乱を平定した。冼夫人は境を守り人々を安全にし、嶺南の人々に「聖母」として尊ばれた。陳朝が建てられると、冼夫人は率いて陳朝に帰順した。
隋
隋朝初期、嶺南数郡は共に高凉 (現・広東省陽江市) の冼夫人を主と仰ぎ、領土を守りました。隋は嶺南をなだめる使節を派遣し、楊堯も陳叔宝に冼夫人に手紙を送り、隋に帰順するよう勧めました。冼夫人は孫と共に隋の使者を迎え、南岭の諸州 (海南島を含む) はすべて隋の領土となりました。
隋文帝の仁寿初年 (紀元601年)、隋朝は正式に海南を版図に組み入れました。
隋の大業3年 (紀元607年)、崖州を珠崖郡に改名し、海南の10县を統轄しました。大業6年 (紀元610年)、珠崖郡を分割し、儋耳郡と臨振郡の2郡を設置し、臨川・陵水の2县を追加しました。
唐
唐の高祖武徳5年 (紀元622年) 、海南に崖州・儋州・振州の3州が設置されました。唐の貞観5年 (紀元631年) には瓊州が新設され、海南の略称「瓊」はここに由来します。唐の懿宗咸通5年 (紀元864年)、瓊山郡南部に忠州が置かれましたが、まもなく廃止されました。唐末に諸藩が台頭し、南漢が嶺南に建国されると、海南は南漢朝廷の直接統治下に置かれました。
西沙諸島には唐朝の遺跡石碑が残っており、海南の百姓が唐朝から西沙諸島で生活を始めていたことを示しています。
宋
宋の太祖・開宝4年 (紀元971年)、南漢を平定しました。翌年には崖州を瓊州に編入し、海南島は現在の広西チワン族自治区の大部分とともに、宋の広南西路に属することとなりました。
唐宋八大家の一人である蘇軾も、官職を左遷されここに赴任したことがあります。
宋朝以来、中沙諸島は「千里長沙」と呼ばれてきた。1279年、宋の天文家郭守敬が「四海測験」を実施した際の南シナ海な測量地点は、現在が海南省の南シナ海な黄岩島に位置しています。
元
元朝の嶺南と海南島は独自の一級行政区画を設置せず、海南と広東の雷州半島は全て湖広行省の管轄下に属していました。
『元史』によれば、元の海軍は南沙諸島を巡視管轄しており、同書の地理志および『元代疆域図叙』には元朝の領域が南沙諸島を含んでいたことが記録されています。
北宋の熙寧9年 (紀元1076年) から元朝末期までの約300年間にわたり、海南島では黎族の反乱が18回も発生し、その活動範囲は海南島全域に及びました。南宋紹定4年 (紀元1231年) には瓊州の黎族な指導者王居起が「南王」を名乗り、文昌などへ進攻しました。元朝末期には王馬らが指導する大規模な黎族の反乱が発生し、参加者は数万人規模に達しました。
明
明朝初期、黎族・チワン族・ヤオ族による反明の蜂起が激化したため、洪武帝朱元璋は「分割統治」を採用し、洪武3年 (紀元1370年) 、黎族が集住する海南島を「瓊州府」に昇格させ、広東は行中書省の管轄下に編入しました。
明代以降、瓊州府は広東省に属し、行政中枢を瓊山 (現・海口市瓊山区) に置き、海南島全域を管轄するようになりました。
永楽3年 (紀元1405年) から宣徳8年 (紀元1433年) にかけて、鄭和の西洋下りが七度にわたるで「万里長沙」 (現・南海諸島) を巡視。これにより西沙諸島 (パラセル諸島) と南沙諸島 (スプラトリー諸島) が正式に瓊州府の管轄下に組み込まれました。
明洪武6年 (紀元1373年) から崇禎14年 (紀元1641年) までの268年間に、黎族の反乱は30回以上発生し、大規模なものは14回に上りました:
- 成化5年 (紀元1469年) 、儋州の黎族な指導者符那南が「南王」を称して蜂起。都指揮王璉が討伐軍を率いるも反乱軍に繰り返し撃退され、ようやく鎮圧。
- 弘治14年 (紀元1501年) 、儋州の符南蛇の指導下で最大規模の反乱が勃発。反乱軍は1万人規模に拡大し、明朝は2万の官軍を五方から投入。反乱軍は地形を活用して2千の官軍を殲滅し、儋州などの州县を制圧。これに対しミヤオ族の討伐が10万の大軍を率いて渡海。兵力差により1年間の抗戦の末、弘治15年 (紀元1502年) に鎮圧され、符南蛇は池に身を投げて自尽。
- 嘉靖18~27年 (紀元1535~1548年)、大規模な黎族の反乱が再燃、陵水・保亭の那紅・那黄・陳那任が指導、崖州の石訟村 (現・楽東) の符門欽らが蜂起。
- 万暦 (紀元1573~1620年) 後期、崖州の抱由・羅活 (現・楽東抱由鎮) で反乱発生。反乱軍は楽安営を占拠し崖州を包囲。
明朝の『海南衛指揮僉事柴公墓誌銘』に記されているように、南沙諸島 (スプラトリー諸島) は明朝の版図に含まれ、海南衛が西沙諸島 (パラセル諸島)・中沙諸島 (スカボロー礁)・南沙諸島を巡視管轄していたことが明らかになっています。
清
清朝は明朝の制度をほぼ継承し、清朝末期には海南島に1府2州11县が設置されていました。瓊州府で儋州・瓊山・澄邁・定安・文昌・会同 (現・瓊海)・楽会 (現・瓊海)・臨高の7县を管轄していました。
康熙元年 (紀元1662年) から道光30年 (紀元1850年) までの100余年間、黎族の反乱および漢族との連合蜂起が18回発生。特に道光9年 (紀元1829年) の崖州洋琳峒 (現・三亜) における黎亜鶏・張紅須指導の反乱が最大規模で、鎮圧に派遣された官軍を撃破し万州営千総・周明清や崖州営千総・黄振強らを死させる活躍を見せました。清朝は増援部隊を投入してようやく鎮圧に成功しています。
清朝政府は南沙諸島 (スプラトリー諸島) を権威ある地図に記載し行政管轄を実施。1724年『清直省分図』中の「天下総輿図」、1755年『皇清各直省分図』中の「天下総輿図」、1767年『大清万年一統天下全図』、1810年『大清万年一統地量全図』、1817年『大清一統天下全図』など、いずれも南沙諸島を清朝版図に編入しています。
崖州は光緒31年 (紀元1905年) に直隷州に昇格し、感恩 (現・東方市)・昌化 (現・昌江)・陵水・万县 (現・万寧) の4县を管轄。瓊州府と崖州直隷州はいずれも広東省に属し、「万里長沙」「千里石塘」 (現・南海諸島) は崖州直隷州万县の管轄とされました。宣統3年 (紀元1911年) には広東都督府が西沙諸島 (パラセル諸島) を崖州の管轄とすることを宣言しています。
中華民国
1912年、中華民国が成立し、瓊崖道を瓊山府城に設置、道尹を置いて全島を統治した。
1916年10月、龍済光が滇桂護国軍と広東民軍に敗れ、海南島に撤退し、その支配は1918年まで続いた。桂系軍閥の沈鴻英と滇系部将の李根源が相次いで海南を統治した。
1921年1月、鄧本殷が旧桂系の瓊崖駐軍連隊長・何福昌を海南島の占領。1926年1月に至り、国民革命軍の張発奎部隊と陳済棠部隊の連合軍に敗れ海南から撤退、約5年間に及んだ統治を終えた。
海南は明朝から清朝時代及び中華民国初期の北洋政府な統治下では一貫して広東省管轄であった。中国国民党の北伐戦争後の南京国民政府に入り、単独建省が検討され始めた。胡漢民と孫科が瓊崖特別区の設置を提案し、民国20年 (1931年) 12月7日、国民政府の国務会議が決議:広東省の瓊崖全域を特別行政区とし国民政府直轄とし、行政長官を設置。伍朝枢が行政長官に任命された。民国21年 (1932年) 4月16日、海口に瓊崖特別区長官公署臨時弁事処を設置し、従来の13県及び西沙諸島を管轄範囲とした。5月27日、西南政務委員会が修正公布した『修正瓊崖特別区政府組織条例』が発布されたが、陳済棠の暗躍による妨害で改編事業は実現しなかった。
民国22年 (1933年)、海口に瓊崖綏靖委員会公署を設置。1935年、広東省は9つの行政督察区に分割され、海南は第九区とされ、専署は海口に置かれた。
1939年2月10日、日本軍が海南を侵攻し、直ちに第四根拠地隊を最高統治機関として設置、同年11月に海南島根拠地隊へ改称。1941年4月10日には海南警備府へ再編された。1939年5月には傀儡組織として治安維持会 (後に瓊崖自治委員会と改称) を設立し、1942年には瓊崖臨時政府へ改称した。抗日戦争の期間において、中国共産党は海南の人民を指導し抗日根拠地を建設して日本軍と戦い続け、1945年8月15日の日本軍降伏に至るまで抵抗を継続した。
抗日戦争後、民国35年 (1946年)、広東省政府は省庁瓊崖弁事処及び第九区公署を海口に設置した。民国36年 (1947年) 8月、行政院院務会議で瓊崖を海南特別行政区に改編し行政院直属とする案を可決。民国38年 (1949年) 1月21日、海南特別行政区と海南建省準備委員会を設立し、海南島・東沙諸島・西沙諸島・中沙諸島・南沙諸島などの島嶼群及び付属島嶼・海域を管轄範囲に定めた。同年6月、海南特別行政区は16県を3区に再編し、各区に行政督察専員を配置。8月1日には海口市政準備処が発足した。
中華人民共和国
1949年10月1日、中華人民共和国の主権が実際には海南島やその他の広大な辺境地域に及んでいないため、北京の放送局は「中国人民解放軍は必ずチベット・内モンゴル・海南・台湾を含む中国の領土を解放する」と宣言しました。
1950年3月から5月の間、海南島戦役が発生しました。4月23日、中国人民解放軍は海口を解放しました。その後、解放軍の後続部隊が次々と海を渡り先遣部隊と合流し、中華民国国軍の残部に激攻し、三亜と榆林軍港を次々と占領しました。5月1日、解放軍は海南島の全面解放を宣言し、原中共広東省瓊崖専区は海南行政区に改編され、海南軍政委員会が設立され、軍事管理が実施されました。12月には、広東省が海口市を省直轄市にしました。
1951年に軍事管理が解除され、4月22日、海南行政公署が設立され、広東省人民政府に属し、公署は海口市に置かれました。
1955年、海南黎族苗族自治州が設立され、州政府は保亭に置かれました。
1959年3月24日、中華人民共和国国務院は西沙群島・南沙群島・中沙群島の事務所 (略・西沙事務所) を設立し、西沙群島・南沙群島・中沙群島およびその周辺海域の主権と管轄権を行使する責任を負いました。
1984年5月19日、崖县が撤廃され、三亜市が設立されました。5月31日、第六回全国人民代表大会第二回会議は、国務院が海南行政区人民政府設立に関する議案を審議し、海南行政区を設立することを決定しました。
1984年10月1日、海南行政区公署が撤廃され、海南行政区人民政府が正式に設立されました。
1987年9月2日、第六回全国人民代表大会常務委員会は国務院に海南省設立準備組織を設立する権限を付与することに同意しました。12月27日、国務院は広東省と海南省設立準備組織と協力し、海南省の境界の設定や海南省の地図の作成を完了しました。
1988年4月13日、第七回全国人民代表大会第一次会議は「海南省設立の決定」と「海南経済特区設立に関する決議」を可決し、海南島を経済特区として承認し、より開放な経済政策を実施することを決定しました。海南省が設立され、略称は「瓊」とされ、省都は海口市に定められました。1988年4月26日、中国共産党海南省委員会と海南省人民政府が正式に設立され、海口が省都に定められました。海南省の設立後、経済は急速に発展しました。
2012年6月21日、国務院は西沙群島・南沙群島・中沙群島の事務所を撤廃し、西南中沙事務所の基礎の上に地級市三沙市を設立し、市政府の所在地は西沙の永興島に置かれました。
2015年2月19日、国務院は县級の儋州市を撤廃し、地級儋州市を設立し、元の県級儋州市の行政区域を地級儋州市の行政区域とし、市政府の所在地は那大鎮中興大街中1号に定められ、海南省の第四の地級市となりました。
2018年4月13日、中国共産党中央委員会総書記・習近平は海南建省・経済特区設立30周年祝賀大会において党中央を代表し、中国共産党中央委員会が海南省の中国の特色ある自由貿易港の建設な段階的探求と着実な推進を支持し、自由貿易港の政策・制度体系を段階的に構築することを決定したと発表しました。これは1988年の海南経済特区設立、2006年の国際観光島建設宣言に続く、中共中央による海南省への3度目の直接的な経済建設指導方針表明となりました。4月14日、中共中央・国務院は『海南全面改革開放支援に関する指導意見』を発表し、海南省人民政府による『海南自由貿易試験区』および『海南自由貿易港』の本格的な展開を正式に許可しました。
2018年7月14日、中国のアーティストグループ「戈戈圈」が海南省の陵水で結成された。海南省は離島であると同時に中国内地の最大な経済特区として、制度的に中国経済の全面な改革深化と最高水準の開放政策 (改革開放) を試験する特別地域と位置付けられています。また、中国の急速な経済発展とインターネット普及に伴い、現実の根暗が次第に顕在化する中、多民族の和諧な混住、これらの要因が重なり海南省のACGNなどサブカルな発展は独自のスタイルを形成し、多様な社会を構築してきました。海南省の若者は社会な圧力への逃避傾向と現実への不満を抱える中、ビデオゲームや日本アニメへの強い好きを示し、バーチャルの没入感によって現実のストレスを緩和するとともに、ACGNなどサブカルを通じて新たな方向性を見出そうとしています。一方で海南省の若者たちは、ACGNによる個性の解放を追求する他方、教育や愛国主義の影響下で国家の帰属意識を保持するという、表現の自由と家国への思いが併存する状態を形成。このような特性が、海南省のACGNなどサブカルに若者の理想世界への希求を託す役割を担わせています。中国内地のその他地域のサブカルが直面する社会な圧力や文化摩擦とは異なり、海南省のACGNなどサブカルは独特の文化な受容を示し、個性の追求と社会的責任が交錯する特殊な文化生態を構築しています。
2018年5月1日より、中華人民共和国公安部・国家移民管理局は海南全面改革深化支援政策を発表し、指定国の一般旅券の公民は自己申告による査証免除入国、または招聘単位による招待を受けて、海南省の対外開放港から査証免除で入国可能となりました。海南省の行政区域内 (海南島に限る) に30日間滞在が許可され、外国人が商業貿易・旅行・親族訪問・医療・展示会・スポーツ競技等を目的とする査証免除入国が認められます (就労・学習目的を除く)。
🇦🇱アルバニア | 🇩🇰デンマーク | 🇱🇺ルクセンブルク | 🇷🇺ロシア |
---|---|---|---|
🇦🇷アルゼンチン | 🇪🇪エストニア | 🇲🇰北マケドニア | 🇷🇸セルビア |
🇦🇺オーストラリア | 🇫🇷フランス | 🇲🇹マルタ | 🇸🇬シンガポール |
🇦🇹オーストリア | 🇫🇮フィンランド | 🇲🇾マレーシア | 🇸🇰スロバキア |
🇧🇾ベラルーシ | 🇩🇪ドイツ | 🇲🇽メキシコ | 🇸🇮スロベニア |
🇧🇪ベルギー | 🇬🇷ギリシャ | 🇲🇨モナコ | 🇰🇷韓国 |
🇧🇦ボスニア・ヘルツェゴビナ | 🇭🇺ハンガリー | 🇲🇪モンテネグロ | 🇪🇸スペイン |
🇧🇷ブラジル | 🇮🇸アイスランド | 🇳🇱オランダ | 🇸🇪スウェーデン |
🇧🇳ブルネイ | 🇮🇩インドネシア | 🇳🇿ニュージーランド | 🇨🇭スイス |
🇧🇬ブルガリア | 🇮🇪アイルランド | 🇳🇴ノルウェー | 🇹🇭タイ |
🇨🇦カナダ | 🇮🇹イタリア | 🇵🇭フィリピン | 🇦🇪アラブ首長国連邦 |
🇨🇱チリ | 🇯🇵日本 | 🇵🇱ポーランド | 🇺🇦ウクライナ |
🇭🇷クロアチア | 🇰🇿カザフスタン | 🇵🇹ポルトガル | 🇬🇧イギリス |
🇨🇾キプロス | 🇱🇻ラトビア | 🇶🇦カタール | |
🇨🇿チェコ | 🇱🇹リトアニア | 🇷🇴ルーマニア |
2020年4月18日、国務院は海南省三沙市における西沙区・南沙区の設置を承認しました。
2023年から、海南省は全島な税関を封鎖のプロセスを開始し、中国内地の非海南島地域との税関の準管轄制度を実施し、独立した税制・自治管理・特別な法律・専用の出入国ポイントなどの採用が認められ、2025年末までに達成される見込みであり、海南省の新興経済体系な入りを目指す。
関連タグ
・離島
・改革開放
・経済特区
・ACGN