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概要編集

東ヨーロッパバルカン半島に位置する国。

面積5.1万平方km、人口323.3万人(2022年)。首都はサラエボ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国(セルビア人共和国)の2つの国家から構成されている。通貨は兌換マルクKM。1ユーロ=1.95583KMの固定相場制。


国民編集

イスラム系のボシュニャク人(セルビア・クロアチア諸語のシュト方言を元とするボスニア語を話す)、同じセルボ・クロアチア語を話す、クロアチア人(カトリック信者が多く、ラテン文字を使用)、セルビア人(ギリシャ正教徒が多く、キリル文字を使用)が共存しているが、使用文字や宗教の違いから互いに違った民族であると思っている者も多い。


歴史編集

6~7世紀初頭に南スラヴ人が移動してきて定住した。10~12世紀にはセルビアクロアチアハンガリー

ビザンツ帝国などが交互にこの地を支配した。12世紀後半からクリンという指導者が現在のボスニア中部を統一して中世ボスニア王国といわれる国家をつくり、ボスニア人という観念もそのころ生まれた。


しかし、14世紀に小アジアからバルカン半島に進出したイスラム教国であるオスマン帝国が急速に勢力を拡大させ、1389年にコソボの戦いで、セルビア、ブルガリア、ハンガリーなどと連合して戦ったが敗れ、オスマン帝国の支配を受けることとなった。その支配が400年間続く中でイスラム教徒が増加し、ムスリム化が進んだ。ムスリムは支配的地位についたが、ギリシア正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒などもムスリムの支配を受け容れる代わりにその信仰は保障され、宗教別で統治が行われた。


1875年、キリスト教徒農民がムスリム地主の専横に反発して暴動を起こし、それがボスニア・ヘルツェゴビナ全土での反ムスリム暴動に発展した。同じような暴動がブルガリアでも起こると、ロシアはキリスト教徒保護を口実にオスマン帝国に戦争を仕掛けた。それが1877年の露土戦争である。ロシアはオスマン帝国を破ってサン=ステファノ条約を締結、スラヴ系国家のセルビアなどの独立を認めさせると共に、ボスニア・ヘルツェゴビナでの政治改革を約束させた。


ボスニア紛争編集

ユーゴスラビア政権崩壊より、独立を主張する声が強くなったが、これに対し、ユーゴスラビアの保守派(主にセルビア系)が、他民族への攻撃・弾圧を開始。その報復から互いの民族を虐殺しあう泥沼の紛争が始まり、血で血で洗うような残虐な殺戮劇が繰り広げられた。国連の仲介により、民族ごとに統治する連合国の形での独立が成立し、紛争に終止符が打たれた。


渡航編集

査証免除取決めはないが最初の入国日から起算して6ヶ月のうち累計90日の滞在なら査証は不要。

日本の外務省はボスニア連邦とスルプスカ共和国の境界周辺は地雷が残っているため注意とのこと。


外部リンク編集


関連タグ編集

ユーゴスラビア バルカン半島 ボスニアの悲劇

スラブ人 イスラム教

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