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概要編集

正式名称日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言
署名1956年10月19日
発効1956年12月12日
言語日本語・ロシア語
締結された場所ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
締結した国日本国・ソビエト連邦

日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(にほんこくとソヴィエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうとのきょうどうせんげん、ロシア語:Советско-японская декларация 1956 года)は、1956年10月に日本国ソビエト連邦との間で締結された条約。これによって両国の外交関係は正常化したが、国境を確定させる為の問題(北方領土問題)は先送りとなった。


経緯編集

国交正常化交渉編集

1955年6月にイギリスロンドンにあるソ連大使館で国交正常化交渉が開始され、同年12月にソ連は日本を含んだ18か国が国際連合に加盟する案に拒否権を発動した。しかし河野一郎農林大臣のモスクワ訪問などで交渉を再開する為の道筋が付けられ、日ソ両国の漁業交渉が決着した事は外交関係を正常化させる地ならしになり、1956年5月に日ソ漁業条約が締結された。


締結編集

1956年10月12日に鳩山一郎総理は河野農林大臣などの随行団と共にモスクワを訪問し、ソ連のニキータ・フルシチョフ党第一書記などとの首脳会談が継続された。焦点の北方領土問題は最初に外交関係を回復させ、平和条約を締結した後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に譲渡するという前提で、改めて平和条約を締結する為の交渉を実施する事で合意した。同月19日に鳩山とソ連のニコライ・ブルガーニン閣僚会議議長が署名し、両国での批准を経て12月12日に発効した。


ソ連が崩壊した後編集

1993年10月にエリツィン大統領が日本を訪問した時、日本とソ連で締結された全ての国際的な約束が日本とロシアの間でも引き続き適用される事が確認された。2000年9月にプーチン大統領が日本を訪問した時に「56年宣言(日ソ共同宣言)は有効であると考える。」と発言し、2001年7月に両国が発表したイルクーツク声明では日ソ共同宣言の法的な有効性が文書で確認されている。


その後編集

政治編集

共同宣言が締結された事で、日本が国際連合に加盟するに当たっての障害が無くなった。1956年12月18日に国際連合総会でソ連は他の東ヨーロッパ諸国と共に日本の加盟に賛成し、全会一致で日本の加盟が実現した5日後に第3次鳩山一郎内閣は総辞職して石橋内閣に引き継がれた。しかし平和条約を締結する為の交渉は北方領土を全面的に返還するよう要求する日本と、平和条約を締結した後に2島を返還して決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま開始が延期された。


経済編集

外交関係が回復して両国の経済交流が復活すると、日本はシベリアの豊富な森林資源(北洋材)に注目し、シベリア鉄道を経由したヨーロッパ諸国に対する連絡ルートも旅客・貨物(中央ヨーロッパ班列)両面で利用される事になった。一方でソ連は日本を北東アジアでの経済的パートナーとして看做し、国際見本市などの開催や投資の受け入れと、軍港として外国人の立ち入りを禁止したウラジオストクに代わる対日貿易港であるナホトカを整備するなどした。


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