杉原千畝
すぎはらちうね
岐阜県生まれの外交官。
長らく八百津町生まれとされてきたが、当時の武儀郡上有知町(こうずちちょう→美濃町→美濃市)生まれと原戸籍に記載されていることを遺族が確認。
但し八百津は母親の郷里であり、全くの無縁ではない。また、父親(杉原好水)が税務署員だったため転勤により各地を転々として育つ。
元々父は千畝を医師にしたいと考えていたようである。しかし千畝は語学の道で生きていくことを決意、早稲田大学予科へと進む。
結果父の怒りを買い仕送りが絶たれてしまったことから、当時募集のあった外語学校・ハルビン学院(学費全免)の募集に応じ入学、早稲田を中退する。ハルビン学院は日本外務省が中国ハルビンに作った、ロシア語に通じた人材を作るための学校であった。
徴兵年齢時は陸軍に志願して歩兵第79連隊に幹部候補生(一年志願兵制度)として勤務し、少尉までキャリアを積み語学力などを磨き上げ、後に外務省に入省した。
当時は徴兵制度があったため、著しい欠格事項のない限りどの階級になるにせよ男性には軍への入隊義務があり、1年しか在籍していないこともあり杉原のような高い最終階級でも職歴として「軍人だった」とは言い難い。
入省後は満州やフィンランドの首都ヘルシンキに赴任し外交官として活躍した。その後、ソ連のモスクワ大使館に赴任する事になるのだが、ソ連側からロシア革命後にロシア国外に亡命したロシア人と交際があったという嫌疑をかけられたため赴任を拒否されてしまい、リトアニアのカウナス領事館に赴任した。
カウナス赴任中に第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツによる迫害から逃れてきた難民(殆どがユダヤ系)が日本の領事館にビザを求めて殺到した。その際、日本の外務省は日独伊三国同盟などナチス・ドイツとの結びつきを強めようとしていた時期であった為、ユダヤ人や難民の救済など取り合っている暇も無く、条件不備などを理由にビザの発行を拒否した。しかし杉原はそれを無視し、難民達に対して独断で大量のビザを発行し、約6000人の難民の国外脱出を援助した。
リトアニア退去後の千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、当時ドイツの保護領になっていたチェコスロヴァキアのプラハの日本総領事館、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館、ルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、日本の敗戦後ソ連軍に身柄を拘束され帰国。
帰国後、日本政府の命令を無視した独断のビザ発給が外務省で問題となり、実質外務省を追放されたと言われる。政府の公式見解では、官庁の機構縮小によるリストラの一環で退職金や年金も支給されており、不名誉な退職ではないとされているが、下記のように杉原制の外務省職員が歴代でも数名しかいないにもかかわらずユダヤ人の問い合わせをことごとく突っぱねたり、ビザ発給の様子を見ていた部下も出世のために杉原の弁護を終生行わなかった。
元外交官である佐藤優によればの名誉回復も「外務省幹部の反対」を押しきった形で行われたものであるなど、少なからず杉原に対する敵意を外務省が抱き続けたことは事実である。
戦後は、語学力を活かして貿易会社や商社などに勤務。1970年代頃に主にイスラエル、ドイツで大戦中の行いが評価されるようになり、この世を去る1年前(1985年)にはイスラエルから「諸国民の中の正義の人」(ホロコーストなどのユダヤ人迫害からユダヤ人を救った非ユダヤ人に送られる称号)を送られた。両国での評価によって日本でも広く知られるようになったが、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られたという。また、生前外務省関係者から、「ユダヤ人を助けたから、金には困っていないんだろ?」と無神経な嘲りを受けたことに激怒し、以降外務省との一切の関係を絶っていた。
没後の2000年には日本政府から公式に名誉回復がされ、現在は「日本のシンドラー」と評されている。
ビザ発給に関する当時の日本政府と外務省の姿勢については、誤解されている部分がある。
日本政府は、通過ビザの発行を許可しなかった、のではなく、通過ビザの発行を許可したが、その条件がユダヤ人難民にとって極めて厳しいものであったというのが正確なところである。
当時の松岡洋右外務大臣が、昭和15(1940年)年7月23日付けで来栖三郎駐独大使に宛てた、『猶太(ユダヤ)避難民二対スル通過査証取扱方注意ノ件』という訓令があり、それによれば、
原文
「最近欧州方面ヨリ本邦(註:日本)経由米国大陸諸国渡航ノ猶太避難民多数アリ 現ニ日本郵船伯林(註:ベルリン)支店ニテ之等避難民ノ本邦米国間ノ輸送ヲ引受ケタル者ノミニテモ六百名ニ上リ(中略)之等ノ者ニ対シテハ行先国ノ入国許可手続ヲ完了セシ 者ニ非サレハ通過査証ヲ輿ヘサル様取扱方御注意アリタシ」
現代語訳
「最近、ヨーロッパ方面から我が国を経由して、アメリカや南米諸国に渡航しようとするユダヤ人避難民が大勢いる。実際、日本郵船ベルリン支店が引き受けた、日米間航路に乗船する亡命ユダヤ人避難民が600名にもなったが、彼らに対する日本通過ビザ発給は、最終目的地たる諸国の入国許可手続を完了した者に限るように」
とのことである。松岡外相と杉原のやり取りには他にもある。
原文
松岡「最近貴館(註:在リトアニア日本公使館)査証ノ本邦経由米加行『リスアニア』人中携帯金僅少ノ為 又ハ行先国ノ入国手続未済ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アルニ付此際避難民ト看做サレ得ヘキ者ニ対シテハ行先国ノ入国手続ヲ完了 シ居リ且旅費及本邦滞在費等ノ相当ノ携帯金ヲ有スルニアラサレハ通過査証ヲ輿ヘサル様御取計アリタシ」
杉原「当国(註:リトアニア)避難民中ニハ近クニ中南米代表ナキト当館ノ引揚切迫ヲ見越シ先ツ現在唯一 ノ通過国タル我査証方願出ル者アリ而モ我査証ハ蘇側(註:ソ連側)ニ於テモ米国方面出国手続上ノ絶対条件トナシ居ル等事情斟酌ニ値スルモノアルニ鑑ミ 確 実ナル紹介アル者ニ限リ浦塩(註:ウラジオストク)乗船迄ニ行先国上陸許可取付方本邦以遠ノ乗船券予約方並ニ携帯金ニ付テハ極端ナル為替管理ノ為在外資金 ヲ本邦へ転送方手配スル場合敦賀ニ予報方手配方夫々必要ノ次第ヲ承知スル旨申告セシメタル上右実行ヲ条件トシテ査証シ居ルニ付右手続未了ノモノニ関シテハ 至急浦塩ニ於テ乗船拒絶方御取計アリタシ」
現代語訳
松岡「最近おたくのリトアニアから来た避難民が小銭だけもって、行き先の入国手続きが終わってないまま日本上陸を許可せざるを得ないケースが多い。それなりの金銭を持った、入国手続きを完了したものでなければ、ビザを発給してはならない。」
杉原「リトアニア避難民の中には、近くに中南米諸国の在外公館がないこと、また日本公使館のリトアニア引き揚げ(ソ連の同国併合による)が切迫していることを理由に、しかもソ連がアメリカ方面への出国には日本の通過ビザ取得を絶対条件としているため、現在、亡命のための唯一の通過国となってしまった日本の通過ビザを要求する者が多い。
そうした事情は酌んだうえ、確実な身元紹介がある者に限って、行先国の入国手続を終え、しかも日本からの乗船券を予約し、為替管理について日本側の提示する条件に従う旨申告させ、かつこれを実行した者にのみ、通過ビザを発給しています。この手続を終えていない者については、ウラジオストク港で日本行きの船への乗船を拒絶するよう、外務省の方で取り計らって欲しい。」
当時の日本政府の見解は、最終目的地の入国許可を得ていない者には通過ビザ発給を許可しない、というものであり、亡命する国の入国手続(ビザ取得)を終えていない者に、万が一に日本政府が通過ビザを発給した場合、全世界規模の難民問題が発生してしまうため、いくら「人道的」とはいえ、そんな無責任な行為をするわけにはいかない。それが日本政府と外務省本省の立場であった。
だが、現場の杉原と当事者であるユダヤ人難民の立場からすれば、日本政府の姿勢は事実上の通過ビザ発行拒否であった。ユダヤ人難民たちにとって、日本政府が求める「それなりの金銭」と「亡命する国の入国許可」という条件は、極めて厳しいものであった。ナチスの迫害から、着の身着のままも同然で逃げ出し、移動手段にも不自由しているユダヤ人難民たちに金銭的な余裕などあるわけがなく、また(上記の電報で)杉原が外務省へ伝えたように、近くに中南米諸国の在外公館が無い状況であるため、受入国の入国許可を得る場所も無いのである。だからといって、ナチスが支配するドイツ方面に引き返せば命が危ない。こういったところに、現場(杉原)と上層部(日本政府)の認識の齟齬が見られると言えよう。それは現代にも通じる、『組織』というものが持つ潜在的な課題である。
難民たちに同情していた杉原は苦悶した。もし外務省の命令に真正面から背けば、指示を無視したことを理由に、杉原が発行した通過ビザを無効とされてしまう危険性もある。外務省の指示から逸脱しない形で、ユダヤ人難民たちに通過ビザを発行する道を模索した杉原は、まずはアメリカへの入国許可が(まだ得ていないが)確実で、十分な携帯金も所持している人物、つまり外務省本省から受け入れられやすい人物に関するビザ発行の許可を取った。そして、それ以外の大多数の難民については、外務省への電報を遅らせることでビザ発行に関する論争を避け、領事館を閉鎖した後の報告で「必要な手続きは納得させた上で、ビザを発給した」として、ビザ発行を事後承諾させた。そして上記の電報にもあるように、「日本の提示条件を満たさない避難民の日本行き乗船を、ウラジオストクで拒否するよう取り計らってほしい」と意見具申し、日本政府の方針に沿う姿勢を取っている。これらは、政府の方針に真正面から逆らわず、ユダヤ人難民たちをナチスの手が及ばない場所へ逃がすための、杉原の方便だったのである。
このウラジオストクという場所も絶妙であった。この都市には杉原がよく知っている後輩に当たる外交官の根井三郎が駐在していた。
難民の窮状に同情した根井は形式主義、権威主義の官僚機構の性格を逆手にとって「一度日本の外交官が発給したビザを無効扱いするのは、日本の公文書やビザの威信と信頼を損なうものである」と本省に抗議した上で本来漁業関係者にしか発給されない許可証を発行して難民を救っている。
なお、このような方便は技術的には現代では通用し得ない。リトアニア・カウナスのワールドプレミアにて、杉原千畝を演じた唐沢寿明がカウナス市民から質問を受け答えているとおり、当時のようなアナログな手法に頼ったモールスの暗号電文でやり取りし、先方の解読を待っている間猶予がある状況だったからこそ「返答待ち」の間にビザを大量発給出たが、文章自体がデータで送られる今では人手での解読の時間などないためである。
本名は「すぎはら ちうね」だが、世界的には「すぎはら せんぽ」でよく知られている。これは、外国人には「ちうね」という名前が発音しにくいため(特にドイツ語圏では"chiune"と綴っても「ヒウネ」としか発音されない)、外国人にも発音しやすいよう杉原が「せんぽ"Sempo"」という読みを用いたためである。
そのため、戦後に助けられたユダヤ系難民の人々が「『センポ スギハラ』にお礼を言いたい」と日本の外務省に問い合わせた所、「そのような外交官は存在しない」と返され、困惑したというエピソードがある。(なお、その後はリトアニア政府の協力もあり、無事に杉原に会うことが出来た)
杉原が勤めた日本領事館には、ヴォルフガング・グッチェという現地採用された秘書が勤務していた。
グッチェは大柄で太った陽気な男で、杉原夫妻の子供たちの遊び相手を喜んで買ってでるナイスガイであり、すぐさま一家の信頼を得た。しかし、名前からわかるように彼はドイツ系民族で、ゲシュタポのスパイだった。杉原もこの事には気づいていたが、妻には生涯語らなかった。
ところが、グッチェは熱心な愛国者であったが結婚する前にユダヤ人女性を愛した過去があり、ユダヤ人に対する敵意はなく、杉原の仕事を邪魔するどころか献身的に手伝った。
同じくビザ発給の手伝いをしていた神学者モシェ・ズプニックとは、別れ際に以下の予言的なやりとりをしている。
「ヴォルフガング、なんとお礼をいったらいいか」
「礼などいい。ドイツ語にはこんな言葉がある。『世界は車輪のようなもの』。わかるね?」
「ええ、車輪・・・」
「今はヒトラーが上だが、明日は彼が下にいるかもしれない。私が君たちにしたことを忘れないでほしい」
グッチェは杉原の国外退去にも同行したが、ベルリンに到着するとあれほど仲の良かった一家の前からこつぜんと姿を消し、以後2度と接触がなかった。
杉原の行為を報告せず、その上手伝いをした裏切り者を放っておくほどゲシュタポは甘くはなかったのである。
2019年現在、命を賭けて杉原を手伝ったグッチェは未だに『諸国民の中の正義の人』には加えられていない。
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