概要
神武天皇の第三皇子、御名は神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)。
実績
神武天皇42年に立太子。
同76年3月に神武天皇が崩御。
神武天皇崩御後、その服喪の際、手研耳命の反逆が発生。
神渟名川耳尊はもうひとりの皇兄である神八井耳命の代わりに手研耳命を弓で射殺した。
この雄々しさにより、皇兄から皇位を譲られ、即位した。
都を葛城高丘宮(現在の奈良県御所市?)に移す
史実性
神武天皇の崩御後は10代崇神天皇に至るまでの間、国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていったとされる。
そのため『古事記』『日本書紀』に事跡の記事を欠き、戦後は実在しなかったとの見方が通説である。
一方で、反乱の鎮圧の事績、婚姻関係の記録、国風諡号、御陵とされる遺跡の形などから、完全な創作ではなく、ある程度の伝説・口伝を反映しているのではないかという意見もある。
人食い天皇?
南北朝時代に成立した『神道集』には、綏靖天皇は暴君であり、朝夕に七人ずつ人を食べたという恐ろしい伝説が記載されている。
あまりにも突拍子もない話のうえ、遥か後代に主張された説なので史実性は皆無なのだが、毎日食人を行う暴君が最期は岩屋に封印されるという結末が、イランに伝わる暴君ザッハークに類似しているという指摘もある。
皇統
- 皇后:五十鈴依媛命(たしらかのひめみこ、事代主神の娘)
・磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと、第3代・安寧天皇)