概要
元亀3年(1572年)、武田信玄の実の甥・穴山信君(梅雪)とその正室・見性院(信玄の次女)の間に誕生。幼名は勝千代。
翌年、信玄が他界。信玄の嫡男・武田勝頼が甲斐武田家を継いだ。
しかし、実父・信君は勝頼を見下しており(信君は、勝頼の名前に武田家の通字・「信」の一字がなかったことから勝頼を見下していたと言われている)、信君は長篠の戦い(武田対織田・徳川)にて(開戦当初は武田軍が有利だったにもかかわらず)主君・勝頼の命令を無視して軍を動かさず、武田軍が敗北する原因を作った(この直後、武田家中では信君の処刑を望む声があった。だが武田家中における信君の影響力は大きかったため、勝頼は信君を不問にした)。
そして1582(天正10)年、織田信長、徳川家康と北条氏政・氏直が武田領に侵攻すると、信君は織田軍に降伏。勝頼は天目山にて自害した。
武田滅亡から3ヶ月後、信長が横死し、信君はその混乱に巻き込まれて落武者狩りによって横死。
その後、勝千代は実母・見性院と共に徳川家康により保護される。家康は、勝千代に甲斐武田家を継がせた。
天正15年6月7日(1587年7月12日)、勝千代は夭折。甲斐武田家は、家康の五男・信吉(母は勝千代の義姉・下山殿)が継いだ。
余談
- 甲陽軍鑑によると、武田信玄(幼名は太郎)も幼少期に「勝千代」と呼ばれていたらしい。
- 「勝千代」は幼名で名は「武田信治」とされているが、確実な史料からは確認できない。