2013/05/17 04:16 版退会したユーザです
清洲会議の項目について少々訂正を入れさせてもらいました。三法師擁立に柴田勝家が反対したというのは軍記物が初出であるため、信憑性の観念から文書の方を優先させていただきました。また多聞院日記の記述を採用して、守役は「堀秀政」であるとしました。九州島津氏の下りについては、惣無事令という政治的判断、宇喜多毛利長宗我部さらには大友も親豊臣を標榜していることから、あくまで優先順位の問題に位置づけました。
2013/05/17 02:15 版コチョコチョと文体を摺り合わせました。あと、小牧・長久手の終戦条件についてやや多く追記。甲斐と信濃の関してはそこに封じられた部下が居ますからね。上が是認しても結構、部下が突き上げるというのはこの時代、かなりあったみたいです(これも所謂「下克上」ですね)。晩期の織田政権はかなり強権的になっていたらしいですが、統治者になって日の浅い、しかも出自定かならぬ秀吉なら部下から喧しく云われても致し方ないでしょうね。私の方もこの辺りはもう少し調べてみたいですね。
2013/05/16 12:16 版退会したユーザです
一部の記述を訂正させていただきました。徳川領となった信濃、甲斐については、天正十年の8月織田信孝、9月柴田勝家の安堵書状があり、天正十年の事と推察されます。織田信雄も援軍供出など関与しているところを見ると、これを小牧の開戦経緯にするには、ちと疑問が残ります。また織田信孝の家督遂行を柴田勝家が熱心に行った形跡も見受けられず、織田家の家督よりは織田家の実権に関する対立構図であると考え、少し表現をぼかしました。
また戦争に至る経緯、理由と、実際の戦闘の流れを大別しました
2013/05/13 04:45 版退会したユーザです
木造氏の名前と開戦経緯を訂正。信濃、甲斐については横領ではなく清洲会議前後に織田信雄、柴田勝家らの協議で徳川家康に正式に譲渡されているため。