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小牧・長久手の戦いの編集履歴

比較する二つの記事のチェックボックスにチェックをいれてください。
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丸座右衛門
イラストを変更。
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かわ
織田徳川軍の戦強さを見せつけた長久手の戦いの欄を修正
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戦場の新人
メイン画像追加。
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Mya
開戦理由が曖昧になっていたので今一度、明記しました。
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前文概要部分に追加記述をしました
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マサル
改行するより要点を箇条書きにしたほうがわかりやすいかも
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戦国好き
信雄は戦死ではないのでそこだけ訂正しました
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戦国好き
見やすさ重視で空白を入れてみました
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戦国好き
末尾に記述を追加しました
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Mya
誤字修正。他に真田昌幸のその後を加筆。
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今更ながら丹羽氏勝(父親)と丹羽氏次(長兄)を混同していたので訂正、御協力感謝です
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Mya
少しだけ文章表現などを変えました。客観的に見て面白い記事になったと思います。ご協力感謝です。
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既に木曽義昌は離反していたので小笠原貞慶に変更
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最後のサブタイトルを修正しました。また秀吉家康の融和については、家康方の事情も多分にあるため、そちらの記述も追加しました。
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清洲会議の項目について少々訂正を入れさせてもらいました。三法師擁立に柴田勝家が反対したというのは軍記物が初出であるため、信憑性の観念から文書の方を優先させていただきました。また多聞院日記の記述を採用して、守役は「堀秀政」であるとしました。九州島津氏の下りについては、惣無事令という政治的判断、宇喜多毛利長宗我部さらには大友も親豊臣を標榜していることから、あくまで優先順位の問題に位置づけました。
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Mya
コチョコチョと文体を摺り合わせました。あと、小牧・長久手の終戦条件についてやや多く追記。甲斐と信濃の関してはそこに封じられた部下が居ますからね。上が是認しても結構、部下が突き上げるというのはこの時代、かなりあったみたいです(これも所謂「下克上」ですね)。晩期の織田政権はかなり強権的になっていたらしいですが、統治者になって日の浅い、しかも出自定かならぬ秀吉なら部下から喧しく云われても致し方ないでしょうね。私の方もこの辺りはもう少し調べてみたいですね。
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一部の記述を訂正させていただきました。徳川領となった信濃、甲斐については、天正十年の8月織田信孝、9月柴田勝家の安堵書状があり、天正十年の事と推察されます。織田信雄も援軍供出など関与しているところを見ると、これを小牧の開戦経緯にするには、ちと疑問が残ります。また織田信孝の家督遂行を柴田勝家が熱心に行った形跡も見受けられず、織田家の家督よりは織田家の実権に関する対立構図であると考え、少し表現をぼかしました。 また戦争に至る経緯、理由と、実際の戦闘の流れを大別しました
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Mya
小牧・長久手の戦いの開戦理由について加筆。意外と複雑なんですよね。
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見出しも訂正
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長久手合戦以降の小牧の戦いを中心に記述、また岩崎城の戦いも付記
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木造氏の名前と開戦経緯を訂正。信濃、甲斐については横領ではなく清洲会議前後に織田信雄、柴田勝家らの協議で徳川家康に正式に譲渡されているため。
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Mya
レイアウトを少々、修正。
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兵力を詳細に
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親記事を変更。
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新規記事作成
更新:250日前

小牧・長久手の戦いの編集履歴

比較する二つの記事のチェックボックスにチェックをいれてください。
2023/08/20 02:34 版
イラストを変更。
2016/08/13 00:59 版
織田徳川軍の戦強さを見せつけた長久手の戦いの欄を修正
2014/12/02 10:23 版
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退会したユーザです
タグの追加
2014/09/10 08:27 版
メイン画像追加。
2014/02/26 03:11 版
開戦理由が曖昧になっていたので今一度、明記しました。
2014/02/24 19:12 版
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退会したユーザです
前文概要部分に追加記述をしました
2013/11/03 15:44 版
改行するより要点を箇条書きにしたほうがわかりやすいかも
2013/09/26 04:24 版
信雄は戦死ではないのでそこだけ訂正しました
2013/09/26 04:22 版
見やすさ重視で空白を入れてみました
2013/06/24 14:26 版
末尾に記述を追加しました
2013/06/09 02:48 版
誤字修正。他に真田昌幸のその後を加筆。
2013/05/28 07:44 版
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退会したユーザです
今更ながら丹羽氏勝(父親)と丹羽氏次(長兄)を混同していたので訂正、御協力感謝です
2013/05/25 04:33 版
少しだけ文章表現などを変えました。客観的に見て面白い記事になったと思います。ご協力感謝です。
2013/05/17 04:19 版
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退会したユーザです
既に木曽義昌は離反していたので小笠原貞慶に変更
2013/05/17 04:17 版
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退会したユーザです
最後のサブタイトルを修正しました。また秀吉家康の融和については、家康方の事情も多分にあるため、そちらの記述も追加しました。
2013/05/17 04:16 版
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退会したユーザです
清洲会議の項目について少々訂正を入れさせてもらいました。三法師擁立に柴田勝家が反対したというのは軍記物が初出であるため、信憑性の観念から文書の方を優先させていただきました。また多聞院日記の記述を採用して、守役は「堀秀政」であるとしました。九州島津氏の下りについては、惣無事令という政治的判断、宇喜多毛利長宗我部さらには大友も親豊臣を標榜していることから、あくまで優先順位の問題に位置づけました。
2013/05/17 02:15 版
コチョコチョと文体を摺り合わせました。あと、小牧・長久手の終戦条件についてやや多く追記。甲斐と信濃の関してはそこに封じられた部下が居ますからね。上が是認しても結構、部下が突き上げるというのはこの時代、かなりあったみたいです(これも所謂「下克上」ですね)。晩期の織田政権はかなり強権的になっていたらしいですが、統治者になって日の浅い、しかも出自定かならぬ秀吉なら部下から喧しく云われても致し方ないでしょうね。私の方もこの辺りはもう少し調べてみたいですね。
2013/05/16 12:16 版
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一部の記述を訂正させていただきました。徳川領となった信濃、甲斐については、天正十年の8月織田信孝、9月柴田勝家の安堵書状があり、天正十年の事と推察されます。織田信雄も援軍供出など関与しているところを見ると、これを小牧の開戦経緯にするには、ちと疑問が残ります。また織田信孝の家督遂行を柴田勝家が熱心に行った形跡も見受けられず、織田家の家督よりは織田家の実権に関する対立構図であると考え、少し表現をぼかしました。 また戦争に至る経緯、理由と、実際の戦闘の流れを大別しました
2013/05/15 06:28 版
小牧・長久手の戦いの開戦理由について加筆。意外と複雑なんですよね。
2013/05/13 05:19 版
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退会したユーザです
見出しも訂正
2013/05/13 05:18 版
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長久手合戦以降の小牧の戦いを中心に記述、また岩崎城の戦いも付記
2013/05/13 04:45 版
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木造氏の名前と開戦経緯を訂正。信濃、甲斐については横領ではなく清洲会議前後に織田信雄、柴田勝家らの協議で徳川家康に正式に譲渡されているため。
2013/05/12 01:25 版
レイアウトを少々、修正。
2013/05/11 19:25 版
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兵力を詳細に
2013/03/11 04:31 版
親記事を変更。
2012/09/20 05:44 版
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