概要
俳諧の発句を独立させた定型詩「俳句」を創始。和歌・漢詩もよくし、短歌評論でも知られている。
結核との闘病生活が有名であまりイメージとして定着していないが、運動好き。
「子規」とはホトトギスのことで、結核で血を吐いて口内が真っ赤になる自分を、口の中が真っ赤なホトトギスに喩えた一種の自虐ネタでもあった。
外交的で皮肉屋ながら、情熱的でかなりの行動派。学生時代は長じても病身をおして日清戦争に取材に行くなど、かなりの無茶もやらかしている。
夏目漱石との関係
生涯の親友となった夏目漱石とは、学生時代に落語談議で縁を持ち、性格は対照的(子規は底抜けに明るく熱い性分、漱石は内気で生真面目、神経質な性分)ながらその親交は子規が亡くなる数日前まで続くこととなった。
また彼のもう一つの功績として、「夏目漱石の前半生の記録を残してくれていた」ことが挙げられる。
漱石はものを処理するときは一括で、しかも紙類は燃やすの一択であったがために、その友人関係を詳しく知るための外部史料である漱石当人に宛てた手紙があまり残っていない。
しかし、子規は筆まめな上に記録魔であったため、自分の手紙さえもまとめて処分する漱石のクセを知ってか知らずか、大量に彼と交換した手紙の内容を残してくれている。
友人
⋯海軍軍人。東郷平八郎の参謀でT字戦法を考案。正岡とは旧友であり、「のぼサン」「淳サン(真之の本名は淳五郎)」
と呼び合うほどだった。正岡は死ぬまで真之のくれた毛布を手放さなかった。
- 清水則遠⋯子規と真之の親友。若くして脚気で亡くなる。2人が大成を誓うキッカケとなった人物。
- 夏目漱石
弟子
- 河東碧梧桐(かとう・へきごとう)⋯子規の高弟。子規の死後、五七五じゃない句を提唱し虚子と対立。ただし個人の交友関係は良かったようで、虚子は「ここまで仲の良い親友は碧梧桐しかいない」とまで言う。
- 高浜虚子(きょし)⋯雑誌ホトトギスの理念となる「客観写生・花鳥諷詠(見たままのことを俳句にする)」を提唱。伊予尋常中学校/現愛媛松山東高に入学。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して子規に兄事し俳句を教わる。子規より虚子の号を授かる。
野球が好き
野球好きで、野球を題材にした句をや歌を詠んでおり、また。数多くの野球用語を和訳した。但し、"「ベースボール」の日本語名としての『野球』を考案した"という説は誤りである。本名の1つである升をもじって、野球(のぼーる)にしたことがあるが、勿論これは野球を意味しているわけではない仮の日本語訳を交えながら野球のルールについて解説したコラムを新聞に複数回に分けて投稿したことがあるが、その最終回において「ベースボールいまだかつて訳語あらず、今ここに掲げたる訳語はわれの創意に係る(現代語訳:ベースボールにはまだ日本語訳がない。そのため、今ここで挙げた日本語訳は自分が創案したものである)」と記述している)。
後に文学を通じ野球の発展に貢献したことが評価され、2001年に野球殿堂に表彰された。
また、喀血する前までは子規自身も野球をやっており、ポジションは捕手だったようである。
上記の「野球という言葉を作り出したのは正岡子規」という誤解は多く広まっている。
2011年の高校生クイズの決勝で「第一高等学校在籍時は二塁手として活躍し、ベースボールを『野球』と訳した人物は誰?」という問題で、灘高校と実況していたなんJ民は「正岡子規」と答えた。対する開成高校は中馬庚と回答。
正解を確信していたなんJ民は開成高校の生徒を口汚く罵った。が、果たして正解は中馬庚であった。
この出来事から、正岡民・中馬民という言葉が生まれた。ちなみに、開成高校にはあのクイズ王伊沢拓司がいた。
そもそも当時の高校生クイズは大人ですらもわからない難問による「知力の甲子園」時代であり、決勝で出されるのはその中でも一般正解率1%以下の問題ばかり。事前の調査で一般でも「正岡子規」と間違えた人が殆どだったという裏付けとなる。
プロフィール
本名:正岡常規
幼名:正岡処之助→正岡升
主な作品
俳句「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
俳句「春や昔 十五万石の 城下かな」
俳句「赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり」
俳句「いくたびも 雪の深さを 尋ねけり」
俳句「若あゆの 二手になりて のぼりけり」
俳句「しぐるるや 蒟蒻冷えて 臍の上」
俳句「草茂み ベースボールの 道白し」
俳句「一つ散りて 後に花なし 冬牡丹」