ホトトギスとは、
- カッコウ科の鳥の一種。この記事で扱う。
- ユリ科の植物の一種。pixivでは「杜鵑草」タグが使われる。
- フラワーナイトガールに登場する、杜鵑草を元にしたキャラクター。→ホトトギス(花騎士)
- くノ一ツバキの胸の内に登場するくノ一。名前の由来は2。→ホトトギス(くノ一ツバキの胸の内)
- 松山市で創刊され、正岡子規や高浜虚子が選者を務めた俳句の雑誌名。この雑誌の定期購読者や同人が参加する結社名としても扱われる。
ホトトギス(鳥)
ホトトギスとは鳥綱カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。漢字表記は時鳥・子規・杜鵑・不如帰・無常鳥など。
特徴的な鳴き声な文学などでよく登場する日本人に有名な鳥。初夏(5月から6月)の季語。
オスの鳴き声が「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」と聞こえるからこの名がついた。(「テッペンカケタカ」「トウキョウトッキョキョカキョク」「ポットサケタ」とも。)
メスは自分で雛を育てず、ウグイスに卵を孵化させ育てさせる(托卵)。ちゃっかりした鳥であるが、体温の低いカッコウの仲間ゆえの宿命である。
日本には5月頃渡ってくる。体の大きい虫食鳥なので、ツバメ以上に食べる必要性があるからだとも、ウグイスの繁殖期に合わせているのだとも推測されている。
不如帰と書いてホトトギス
このような中国の故事がある。
秦の以前、蜀(三国志の蜀ではなく、古蜀といわれる国)という傾きかけた国があった。そこに杜宇という男が現れ、農耕で蜀の国を再興し「望帝」と呼ばれた。
彼が死んだあとその魂はホトトギスとなり、民に農耕の始まりを告げるために鋭い声で鳴くようになった。
後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知ると、ホトトギスになった望帝は嘆き悲しんで「不如帰去(帰り去くに如かず=(蜀の地へ)帰りたい)」と鳴きながら血を吐いた(あるいは血を吐くまで鳴いた)。
なので、今でもホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだと伝えられている。
天下人とホトトギス
ホトトギスといえば戦国時代を制した三人の天下人の俳句で有名である。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)
この句は実際に三人が詠んだものではない。『甲子夜話』という江戸時代の文学で登場する句である。
また足利義輝、柴田勝家らの辞世の句にもホトトギスが登場する。
俳誌・俳句結社としてのホトトギス
1897年(明治30年)1月15日に、海南新聞(愛媛新聞の前身の一つ)社員・柳原極堂によって松山で創刊された。俳誌として創刊されたものの、明治時代はほぼ総合文芸誌であり、明治38年には夏目漱石の『吾輩は猫である』が同誌で連載開始している。俳句の色が再び強まるのは、一時俳壇を去っていた虚子が復帰する大正時代から。以来、購読者数が最も多い俳誌、つまりは会員数が最も多い結社として俳壇に君臨し続けている。
ただし、会員数が多ければ作品の質が高いか? というと、そうでもないらしい…。「きっこ俳話集」なる、きっこさんという俳句ファンの個人の文字サイトでは、ホトトギスのあり様について一俳句ファンからの忌憚なき意見が暴露されている。なんでも「なにしろ俳壇には、俳句を作ることなんか二の次で、賞を取ったり名前を売ったり権力を持つことしかアタマにないような、根回しが大好きな腹黒~いのがウジャウジャしてる(同サイトからの引用)」という告発がある。真偽のほどは定かでは無い。ちなみにこの文章は「正岡子規の没後100年」、つまり2002年に書かれたもの。それから20年近くたった23年現在は状況が良くなっているものと思われる。