概要
司馬史観とは、歴史小説家として著名な司馬遼太郎による著作内等での記述や意見のなかで、
……といったものを包括した歴史観・概念である。
※ただし、あくまで後述されるように司馬の記述等がとある傾向を持つことが判ってきたことで多方面から提唱されるようになった俗称であり、司馬自身がこの用語を積極的に用いていた訳ではない。
司馬遼太郎という作家は、その類まれな歴史解釈のセンスと好奇心からくる膨大な知識量、「学徒出陣経験者」という経歴、行動力の高さからくる人脈の広さでや数々の華々しい受賞歴などで、最盛期にはその著作は小説・エッセイ問わず絶大な信頼が寄せられていた。たとえフィクション作品であっても、その解説調のナレーションと相まって「多くは歴史的事実に依ったもの」と不特定多数のユーザーに解釈されることが多かった。また、多くの知識人からも「司馬さんがそう言うなら、恐らくそうなんだろう」と手放しで礼賛されることが多かった。
ただし、リアリティ高めと評された司馬の著作は、不特定多数の部分で「司馬遼太郎による独自の解釈」が存在し、しかもそれが極端でともすれば風評被害待ったなしな部分があることが一部で有名であった。
それは、歴史的偉人の子孫や該当事件の関係者からのクレームに発展することも珍しくなかった。
『功名が辻』を発表した際には、主人公の千代の功績を印象付けるためか、その夫にして土佐藩初代藩主である山内一豊をその歴史的功績の大部分を描かず、妻の支えがなければ何も出来ない暗君的に描いたことに関して山内家18代当主である豊秋氏が「お前はウチのご先祖様の何がわかるんだ⁉(意訳)」とブチ切れている。
後々に司馬本人は「若気の至りと自分の実力不足でしたわ、あんまりいい仕上がりでもなったし(大意)」と感想している。
また、『尻啖え孫市』にて主人公雑賀孫市をとんでもない好色人間に仕立てあげてしまった際には、作品を読んだ読者、特に孫市の子孫を自称する人達から沢山の苦情を受けて恐縮した旨を、作者自身が作中で述べている。ちなみにそれに対して司馬本人は、
「好色は戦国精神の闊達さのあらわれのひとつ」
「格調の高い精神から出てくる好色というものは、その民族の文化の度合いの基準」。
と、弁明している。
‥‥「我が尻啖え(くらえ)」と言うより「我が屁理屈啖え」、だという気もしなくもない。
と、以上はフィクション作品へのクレームであるため、まだ許容範囲ではあった。
が、これらに加えて旧日本軍の悪弊の象徴として司馬が実体験であると語ってきた大本営参謀による避難民轢き殺し指示事件(仮称。親記事参照)が、当時を知る元戦友らが司馬本人を問い詰めた結果まったくの作り話と判明したことで、司馬史観全体に懐疑の目が向けられるようになってしまう。
この他、各方面から同じようなツッコミが多数寄せられたことにより、司馬作品のノンフィクション系統においてさえ真実のほどが謎になってしまったのだ。
司馬史観は、戦後の日本人の感性のツボをおさえたものであったために、意識的に、あるいは無意識にそれを取り入れたユーザーや知識人が多かったことが多くの研究家から指摘されている。
しかし、こうしたトラブルが積みあがった結果「司馬史観はどこまでが歴史的事実に依るもので、どこからが司馬個人のイメージや独断と偏見なのか」が特に司馬の死後である2000年代以降から議論されるようになっている。現在、司馬作品の映像化等がされる際にはその偏見にすぎる部分に対して最新研究を踏まえた一部の事件や人物へのフォローがなされるのが常となっている。
なお、司馬本人は前述にもある元戦友に捕まった際に、
「なんで歴史研究家でもない俺が本当のことばかり話すとおもったんだ(要約)」
かなーり身も蓋も無い表現をすれば、昭和の炎上案件。
むしろネット掲示板やSNSが存在しなかった当時だからこそ成立してしまった現象ともいえる。
特徴
歴史観の骨子
「明治までの日本人は立派だった。」
「昭和が魔法にかかったようにダメだった。」
端的に言えば、明治を‘明るい時代’と仮定し、対照的に昭和を‘暗黒の時代’とするものである。
その考察の内容は、戦後日本において都合がよく(自然と米英に協力した期間が明るい時代、逆らった期間が暗黒となる)、NHK大河ドラマ等を通じて半ば公的な歴史観として大きな影響を与えた一方で、批判も根強い。作家の大岡昇平らからは「記述について典拠を示してほしい」、「面白い資料だけ渡り歩いているのではないか、という危惧にとらえられる」(=これは大岡が司馬の著書『殉死』を購読した際の感想)といった声がみられ、同時に一本の大河の流れとして認識しなければならない歴史を良くも悪くも分断して認識しようといているのではという意見もあり、現代に至るまで議論がなされている。
(詳しくはこちら)
なにせ、幕末の尊王攘夷運動の精神的支柱であった吉田松陰のことを「子供の頃から毛虫のように嫌い」と言い切っているのである。ナショナリズム的なものへの生理的な嫌悪は筋金入りだとみて間違いなく、司馬の著作を参照する際はこうした本人の感情的な部分により中立性や客観性が損なわれている部分が多々あることを留意しておく必要がある。
こうした主張をするようになったのは、戦争当時の政府や軍上層部のあまりの愚劣さと出征体験の悲惨さに腹が立ったからというのが最大の原因とされる。また、後述にもあるように国家主義の象徴的な存在としても扱われている乃木希典の生誕の地である江戸にあった長府藩上屋敷の跡地について触れた際に「こんな陰気な場所だからあんな人物になったのかと昔から思っていた(大意)」と述べるなど、先述の松陰の一件ともあわせて昔からこうした系統への忌避感は強かったことが窺える。
(ただし、馬賊に憧れた時期があるなどそれなりにロマンチストな部分もあった。)
現在でも保守・リベラル共に一定の指示を得ている解釈だが、提唱当時から根本的な矛盾があることが指摘されている。
主張内容を大まかにまとめると、「明治までは政府・軍部・国民が一体となって諸問題に対処できていたが、昭和に入ると政府も国民も無気力かつ無責任になりエリート主義の軍部の独走を許してしまった」という趣旨となる。
司馬は諸々の場所で『明治人の合理さと意識の高さ』を後々まで保てなかったために、『昭和人は非現実的な精神論を振りかざすようになった』と説いた。
(※超要約)
だが、実際には明治期でも軍部は川上操六らの指示のもと朝鮮半島や中国大陸へかなりえげつない謀略を政府関係者や国民に内密で仕掛けている。この時に満洲や内蒙古などで日本軍が育てたゲリラ部隊が後にその一部が清朝崩壊後の中国内戦という大混乱へ身を投じてしまっている。また、司馬自身も祖国防衛戦争と位置付けていた日露戦争自体が実際は七博士ら一部有識者やマスメディアに扇動されロシアへの妥協を「弱腰外交」と評して憚らなかった当時の国民の世論上の強い要求があったからというのが実態である。これは、富国強兵の名の下で明治政府が重税を課していたことの反動であり、各研究家らの言を借りれば「開戦をして実際に軍事力を行使しなければ内戦で国が滅びるかもしれなかった」という状況であった。もっと言えば「俺たちから税金巻き上げて戦艦も鉄砲も作ったのに何で使わないんだ?!」といったところか。
……べつに、軍部が独走して国民が無責任というのは昭和に限ったはなしではないのである。
色々と言われることが多く司馬自身がクソミソに貶している昭和期に関しても、軍部の行動の建前と目的としては祖国防衛(及び邦人保護など)を掲げて行っている点は同じではあることを忘れてはならない。また、司馬が日清戦争などを評して「地政学上の要求による安全保障」と説明した明治政府の大陸進出であるが、この原則も基本的には満州事変などでも変わってはいない。続く日華事変による各種トラブルもこの時期に入っていきなりはじまったと評するのは偏見にすぎる部分が多数ある。
このため、思想の左右を問わず「条件と内容はほとんど同じなのに、片方の行動は防衛だと断じ、もう片方の行動は侵略だと言わんばかりなのはどういうことか?」と現在まで突っ込まれている。
……この部分は司馬史観が議論される際にもっとも意見が分かれる部分として知られる。
そもそも、昭和期と明治の最大の違いは藩閥政治とそれを背景にした元老院の存在の有無であり、特に藩閥政治は「旧時代の遺物」と断じられ大正デモクラシーを境に解体され元老院も在籍者が鬼籍に入るなどして徐々に機能を失い太平洋戦争の間際に消滅した。明治陸軍の児玉源太郎でさえ「こんなの違憲だ!」とうざがったとされるこれらだが、実際にはこの元老院らが超法規的措置(?)的に国内外の各方面へ根回し等を行い、報連相的な部分で不完全な部分が多かった当時の法規や組織体制を補完していたという事実がある。昭和期にはこれが無い。あったのは大本営などの個々の組織だけで、例えば統合参謀本部や国家安全保障会議のような各省庁組織の意見・政策統一機構が存在しなかったことが第二次世界大戦における日本の迷走を生んだというのが現在の政治・軍事評論界では支配的である。(高貫布士/軍事アナリスト ほか)
司馬は『坂の上の雲』などで「薩長藩閥は非合理的な組織の下で、合理的に他派閥の人材を使いこなした(要約)」と明治期のそれに関しては一定の評価を述べてはいるが、昭和期のそれとの差分に関しては結局深く語ることはなく、この部分でのシステム的な分野へ深く切り込もうとはしなかった。
むしろ、「痛々しいまでのオポチュニズム(楽天主義)」とまで形容した明治人のフレッシュさと、司馬が戦時中に体験した経験談やそれらのフィルターを通して語られる昭和人の暗黒面といったメンタル面の指摘ばかりが各方面で取り上げられていたほどで、
結果、司馬史観を参照したユーザーや知識人らには「日露戦争に日本が勝てたのは明治人の魂が高潔であったから」とか「第二次世界大戦での日本の敗北はシビリアンコントロールの重要さを無視して全体主義への傾倒を許したあげく現実を直視せず精神論へ逃げた昭和人のダメダメさの末路」といったイメージばかりが先行して、いったい組織の構造上の問題であったのかメンタル的な考察なのか、決して区別できていない代物と化してしまっている。
……と延々と述べていけば長くなってしまうため纏めるが、
ようは何が問題になっているのかといえば、司馬遼太郎という人物は少なくとも著作上では「何かを褒める時に(特に個人的に気に入らない)別の何かを貶す癖」が多分にあるために、
特にこの部分では明治政府の欠点を問題視している層や昭和期や幕末の体制側の業績に着目している層から、「主張内容が忖度と偏見でアンバランスすぎる」と指摘されていることにある。
挙句、結果的に明治期の礼賛に偏ったことで江戸幕府や佐幕派の欠点をあげつらい小栗上野介らによるその業績の重要な部分をスルーかぼやかしてしまったことにもなったので、旧幕臣や会津藩等の関係者の一部からは「明治政府の歴史修正主義を追認・拡散させた極悪人の一人」と憎まれる事態になっている。
(※江戸幕府の組織的な限界うんぬんを棚上げして客観的に見れば、薩長同盟は当時の「正当政府」であった幕府を攻撃して政権を奪い旧佐幕藩らを弾圧した簒奪者となるため、間違ってはいない。もっとも、会津世直し一揆などの佐幕側の黒歴史も考慮しなければならないが。余談ながら、こちらを突き詰める場合は会津観光史観/怨念史観という別の問題に直面することになる。)
歴史的偉人へのイメージと影響
司馬の偏った歴史観や差別的な描写において最も貶められてしまったのは、やはり戦国時代を終わらせ、天下泰平を目指した江戸時代の基礎を気付いた徳川家康であろう。
前述の歴史観から、司馬は明治政府を神格化していたのに対し、江戸幕府を築いた家康の事は、登場した作品の描写から見ても、「日本人を歪んだ民族にする幕府を開き、欲望のままに生きた巨悪」として殊更敵視・見下していた節があり、逆に歴史上で家康と敵対したとされる石田三成、直江兼続、真田幸村の三人は、「巨悪である家康に立ち向かったヒーロー」として扱われているのだが、反面これらの三人の史実における問題的な行動に関しては悉くボカされている判官贔屓的な描写も目立っている(他に偏った評価をされているのは源義経と源頼朝の兄弟)。
現在も司馬によって描かれた家康の極悪人像への影響力は根強く、大河ドラマの「天地人」などが影響を受けた代表的な例と言っても良い。一応司馬も「覇王の家」という家康を主人公に据えた小説を連載したのだが、この作品でも司馬の家康観は基本的に変わっていない。
(曰く、「生傷を舐め続けて最終的に治してしまうような粘っこさ」(要約))
矛先は家康だけにとどまらず、『最後の将軍』では15代将軍徳川慶喜を「能力は高かったけど自意識とセンスが時代に合致しなかった敗北者」といった決して好意的とは言い難いイメージで描いている。
ここまで司馬が家康や徳川家を貶す理由は、家康が江戸幕府の開祖であるのに対して司馬が大阪人だからではないかといわれることがある。
一方で三英傑の他の二人についても「既存の体制の破壊者」としての織田信長と「明朗快活かつひとたらし」な豊臣秀吉という現在広く受け入れられている人物像を広めたきっかけの一人と目されている。特に秀吉は「太閤記」という主役作があった分、広く浸透したと思われる。
- なお、これらの人物造形をあえて破り、歴史資料から窺える人物像に回帰するというのが2016年の大河「真田丸」以降主流となりつつある。
- 『真田丸』:「小心者で生き残ることを優先する等身大の家康」「ひとたらしだけど耄碌する前から冷酷な一面を持つ秀吉」「忠義に篤いが融通が利かず敵を作りやすい三成」など
- 『おんな城主直虎』:前作と概ね同様の家康像を引き継いでいるほか、今川義元・氏真父子など世間から過小評価されている武将の再評価に一役買った。
- 『麒麟がくる』:「室町幕府や朝廷など既存の権力に取り入る信長」「自らの出自にコンプレックスを持ち手段を選ばない秀吉」など
- 『青天を衝け』:「旧いしがらみと風雲渦巻く時代に翻弄されつつもベストアンサーを求め続けた慶喜」と「主君であった慶喜の志を継いで明治政権下でも辣腕を振るった渋沢栄一ら旧幕臣たち」及び「好戦的な西郷隆盛やしばしば渋沢と対立しつつも能力を認め合う大久保利通・大隈重信・岩倉具視、逆に渋沢を高く評価する伊藤博文・井上馨といった明治政府の面々」など
- 『鎌倉殿の13人』:「戦にステータスを全振りしすぎた義経」「冷徹な政治的手腕を発揮する一方で女性関係にだらしない頼朝」など
- 『どうする家康』:「とにかくヘタレで情けないが近隣諸国の武将に揉まれて成長を遂げる家康」「その家康を唯一の友として厚遇するが理解されない、革新性と保守性を折衷したような信長」「一見明るく人当りがいいが恐ろしく頭の回転が速く心の闇も深い強欲な秀吉」など
加えて明治時代の作品群においては乃木希典大将を徹底的にこき下ろしている(後述)反面、「海軍は自分の管轄外だから」と申し開きのうえ、元海軍大佐の黛治夫氏の著作に頼るところが多いとしてそれほど批判的なことを書いてはいない。(唯一の例外は日本海海戦における敵旗艦の突然の回頭に伴う首脳陣の誤認くらいであり、それも東郷平八郎長官のみならず司令部全員のミスとして描いている)だが、史実を紐解くと日露戦争後学習院の学長を務めのちの昭和天皇以下多くの学生への教育に励んだ乃木大将(なお、それすらも司馬は「死んで責任を取りたいと言ってたくせに(要約)」と作中で痛烈に非難している)に対し、東郷元帥は最晩年に若い将校たちに担がれて軍縮条約締結反対運動に参加、(結果として)政治に混乱を起こしてしまったという特大のやらかしをしてしまっているが、司馬はこのことにはノータッチだったりする。
……こうした罵倒や中傷ないし忖度の揺れ幅のせいで司馬遼太郎という作家・知識人への評価は非常に困難なものとなってしまっている。
作風の問題点
司馬作品のお約束と言える「筆者は考える」、「余談だが...」で始まる脱線蘊蓄も非常に賛否両論。
なにせ章1つの過半(約数ページ~数十ページ)をうんちくや豆知識の類でゴリ押しすることすらあるのだから始末に悪い。シリーズ作品でこれをやられて、下手すれば単行本1冊の半分以上が持論や独自研究で埋め尽くされていて、メインストーリーが全く進まないケースも珍しくもない。脱線なんてかわいいレベルじゃないよ。出どころは不明ではあるが、「坂の上の雲」連載の際に戦争相手のロシアという国の成り立ちを一からつらつらと書いたため、何十回分もロシアの歴史のみの記載となってしまい、編集部を絶望させたという噂もある。
また、前述および後述にもあるように、司馬の悪癖として「かなり信憑性のありそうなフェイクをそれっぽく折り込み、それが話題になってもその点をあまりフォローしない」というものがあるのもネック(※ただし司馬だけの欠点ではない)。これが、よりによってその雑学ラッシュの合間にねじ込まれることがあるため完全な作者の創作であっても歴史的事実であると誤解してしまう読者が後を絶たない。そうした事例の一つが高杉晋作による功山寺挙兵。『世に棲む日日』によって有名になった事件だが、実際に高杉が挙兵したのは馬関であり、功山寺は関係がない。しかし、作品のヒットと町おこしをしたいというご当地の思惑により、いつの間にか境内に高杉の銅像が建てられ『歴史的事件』として世間に認識されてしまっている。
有名な逸話として、当時の大学生読者の一人が作品の感動を司馬本人に熱く語った際に、渋々ながら作中における(孝明天皇の賀茂行幸の際に「征夷大将軍!」と声を掛けた)等の俗に言う「高杉の武勇伝三点セット」は完全な創作であると説明した。これに対してその大学生は高杉の魅力的なエピソードの多くが虚構であったことにショックを受け、「ならば、高杉晋作って他に何が評価できるんですか?」と司馬に聞き返したという……
『乃木希典』批判に関する批評
一番有名なものは、 『坂の上の雲』 を執筆した際に 「フィクションを禁じて書くことにした」とし、書いたことはすべて事実であり事実であると確認できないことは書かなかった (朝日文庫『司馬遼太郎全講演 5』/「坂の上の雲 秘話」より)と主張しているが、
旅順攻囲戦をめぐる記述において、史実では同要塞陥落まで第三軍の指揮・作戦は一括して乃木希典将軍が執っていたにもかかわらず、公刊戦史の記述を無視し、いつまでたっても作戦を遂行できないと判断した満州軍総参謀長児玉源太郎が乃木を将帥として無能と断じて第三軍の指揮権を取り上げるというどこの資料にも確認ができないエピソードを真実としたことで、現在まで議論を呼んでいる。
※詳しくは乃木希典項にて
先述の山内豊秋氏は、『功名が辻』での一件と合わせこれに関して、
「小説であっても、歴史小説であるからには、史実の中核を抹殺するがごときフィクションを記してよいものか。」
「史料不足か早とちり」
と、痛烈に罵倒している。
ついでに、彼はその末尾を「敬愛する司馬さんに盾突きたくないが」と強烈な皮肉で結んでいる。
『坂の上の雲』を執筆し始める前年に乃木希典を主人公した『殉死』を著した際には、乃木が皇室崇拝者であり自身の武士道の追求として明治天皇を敬慕していたことに関して「自分の劣等感の裏返し」と嘲笑的に表現し、さらに明治天皇臨席による軍事パレードの際に先頭を過ぎった野良犬を乃木自らが槍で突き殺したというエピソードを書き「こんな行為のどこに美学があるというのか」とまで煽り倒している。乃木の戦地等での業績も結局はスルーか曖昧な表現に止め、親友であった児玉のフォローがなければ何もできない男として描いてしまっている。
流石にあまりにも乃木へのディスりが誹謗中傷じみているとして先述のように大岡や山内ら著名人からも非難が殺到した。時代的にまだ当時の関係者の一部は存命であったにもかかわらずこのようなある種の暴挙に及んだことに「司馬さんの心の闇さえ感じてしまう」とう声さえみられた。
これらに関する疑問に対して、司馬の生前にも多くの著名人がその真意を尋ねようと交渉したが、本人はとうとうその理由を語ることなく墓場まで持っていってしまった。
結局、司馬の記述を無批判に受け取った多数のユーザーらによりこの乃木希典愚将論は拡散されてしまう。乃木の名誉回復は、事実上司馬の死後に第一次資料の研究結果重視の風潮が訪れるまで待たなければならない。
残したもの
生前より司馬と交流があった松本健一は、『坂の上の雲』執筆の少し前に三島由紀夫が「今(当時)の形骸的な民主主義と国民意識を変えなければ大変なことになる(大意)」として起こした割腹事件に際し、司馬は三島の行いを「芸術家気取りの暴走」(要約)と痛烈に批難しているうえにこれを境目に作風に大小の変化が起きていること、また各所での記述や発言などを吟味したうえで戦前に自身をも苦しめたナショナリズムの象徴となっていた乃木希典の神話を破壊しようとしたと推測している。(「三島由紀夫と司馬遼太郎」より)
だとしたら、司馬は乃木希典という人物に三島由紀夫を投影していたことにもなる。本人が頑なに語ることがなかったので真相は藪の中ではあるが。
……もっとも、もしそうだとしても、このような目的のために印象操作じみた行いをしたために自身の作品全般の信用を大きく損なうという致命的すぎる結果を招いたことを司馬本人がどこまで理解していたかは定かではない。
その司馬本人も1996年2月10日深夜に吐血して倒れ、2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した。享年72歳。
松本曰く、司馬は三島が後世に問いかけた「美しい日本」に内々で衝撃を受け、以降それを打消し、日本とは素朴な庶民の底力で創られてきたのだと再定義しようと躍起になっていたと考察している。特に三島が重視した(とされる)ナショナリズムを戦前への回帰と警戒し、その否定には非常な熱意を見せ、自衛隊関係者が集まる公演などで「貴方たちは理性を失わないでもらいたい」というニュアンスの発言をするなど精力的に活動した。
だが、司馬は実際に庶民出身の田中角栄が出るとこれを嫌悪し、方向性が混乱する。絶筆となった『日本に明日をつくるために』においてバブル前後の世相を評して「こんなものが、資本主義であろうはずがない。」「人の心を荒廃させてしまう。」と悲鳴しておりバブル期になるとむしろ司馬自身が三島の立場となっていた。
松本は、司馬の死を実質的な自殺と評し、塩野七生も「実に悲壮な死に方をした」と述べている。
……ちなみに、それを聞いた某純ちゃんは「可哀想な訳がない!司馬さんは幸せな死に方をした、だっていっぱい賞をとってるじゃないか」とかなりズレた反論をしている。
その後、司馬史観は「昭和の戦争は駄目だが明治日本の膨張主義は正しかった」「明治をみならって日清・日露戦争をもう一度やるべきだ」という方向で解釈が行われ、皮肉にもナショナリズムの流れを加速させ、司馬が親しかった韓国との関係も悪化を続けるという展開を辿る。
著作や歴史観の反響
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
作中のキャラクターである大原大次郎(※中高年)と擬宝珠檸檬(※幼稚園児)は司馬作品のファンであり、同好の士として語り合うシーンがある。
ちなみに、二人とも司馬の初期作品推し。
実のところ、短編や中編が中心であった初期の司馬作品は余談や持論の類が最小限な、非常にオーソドックスな良質の歴史小説としてユーザー間では有名。ただしエロ描写の生々しさもすでに健在であり、上述の通りだとすると、作品によっては「幕末にて普段は知的障害の少女をセフレにしている高学歴ニートが、ある時にふと出会った大名夫人に一目惚れしてしまい自身の欲望を遂げるために軍師に扮して京都近郊の攘夷派と佐幕藩との抗争に参加してどさくさに紛れてその大名夫人に夜這いを仕掛ける」といったキワドイ話を幼稚園児の美少女が読んで理解していたということになり(自主規制)
『バーナード嬢曰く。』
国内外の名作小説をテーマにしたコメディ作品。
とある回にて、登場人物の遠藤が歴史小説に手を付けてみようと司馬作品に目を付けたが、司馬作品の全体を支配しているという「司馬史観」に毒されるのが嫌で、下調べをしていくうちに司馬作品よりも司馬史観の方に詳しくなってしまったと友人である長谷川スミカに打ち明けるシーンがある。
青年向けマンガにこんな表現が出るということ自体が現在の司馬史観の扱いを端的に示している、かもしれない。
『劉邦』
高橋のぼるの漫画作品。
楚漢戦争をテーマにした作品だが、なんと煽り文が「司馬史観では到底描けない極上の漢たちが続々と登場‼」となっている。
文字通り司馬作品の『項羽と劉邦』への挑戦が趣旨であると思われ、別作品で出てきそうなほどに大胆に改変された歴史上の人物たちが作中で暴れまわっている。
同作や上述の大河ドラマのように、近年の歴史作品では司馬史観への挑戦と再定義が試みられるケースが多くなりだしている。
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最後に
他のどの漫画・小説にも言えることだが、司馬作品は歴史を基にした創作物である。
歴史への興味を抱くとっかかりや、歴史の大まかな流れの把握(それこそ中高の歴史の授業で扱うレベルの歴史上の出来事がどの順番でいつ起きたかなど)には適しているが、「司馬遼太郎が書いているのだからこれは史実だ!」と主張するのは認識がずれてると言えるだろう。当人もかつて申し開きで言ったように、彼は小説家であり歴史研究家ではない(もっと言えばデビュー前の職業は新聞記者)のである。そしてもし史実について語りたいのであれば読むべきは後世の創作物ではなく当時の一次資料である。
また、これら様々な見方ができる司馬作品ではあるが、これは偏に司馬作品での描写があまりにもリアリティに満ち、本当にあったように錯覚させてしまうほどの説得力を持ってしまっていることの証拠ともいえ、いわゆる司馬史観の是非により彼の作家としての名声がかげることは決してないと言えよう。
何よりも、前項にもあるように周囲からのツッコミに対して司馬本人がある程度は謝罪していることは留意しなければならない。多分に偏屈かつ真摯とは言い難いなリアクションではあるけれども…
ただし、ともすれば自身の影響力を省みず、特定の人物や集団への(なかにはきちんとした資料や証言等が揃っていたにもかかわらず)事実とは違うイメージを流布させる結果となったことは言い訳はできまいと思われる。
こうしたことを踏まえて、「司馬史観=作家である司馬遼太郎の個人的なイメージ」といった一歩引いた視点でとらえていく姿勢が必要である。
司馬さんだって人間です。間違う時もあったし、悪ノリしたくなる時もあったのである。