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会津世直し一揆

あいづよなおしいっき

会津世直し一揆とは会津戦争終結後の会津藩でおきた一揆である。別名「ヤーヤー一揆」とも。
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会津戦争の敗戦によって、会津の人々は多くの犠牲を払い、藩士たちは僻地である斗南藩3万石へと減転封させられた。

これにより、薩長への恨みが21世紀を過ぎた今もなお形成されることになった…とされている。


…しかし、武士階層以外の人々にとっては、薩長よりもむしろ自分たちの支配者であった会津藩に対する怒りの声が大きかったのである。


会津戦争前夜編集

幕末の会津藩は財政破綻寸前となっていた。最大の原因は藩主・松平容保の京都守護職就任であった。これにより従来の会津・参勤交代で赴かなくてはならない江戸・さらに京都と3か所での生活を余儀なくされることになった。

さらにその費用も莫大で、江戸での生活にかかる経費が年間約12万両(現在の価値に換算して、約30億円程度と推定される)だったのに対し、京都での経費が年間22万両(約53億円程度!)に達したのである(本来、京都守護職にかかる費用は幕府側が負担することになっていたが、幕末になると財政難を理由に減額されたり横領されたりで、藩側が自腹を切らなければならない部分がとても大きかったそうな)。


…では、その経費はどこから捻出するのか?

当然、領民からの更なる徴税である。


更に大政奉還後、加速度的に悪化していく旧幕府と薩長の対立はついに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争となり、戦火は西から東へと進んできた。

ここで会津藩は恭順の姿勢を示しつつも武器弾薬の購入、食料の徴発などの準備に勤しんでいた。

その過程で藩主・松平容保は徹底抗戦を主張し(家老の西郷頼母は和議恭順を勧めて容保を諫めようとしたが、聞き入れられなかった)、戦時体制を盾にした会津藩による領民からのさらなる徴税や人馬の強制徴発、そして武士による略奪も日増しにエスカレートしていった。

ちなみに、会津藩に徴兵され連れて行かれた領民は人足として過酷な労働に駆り出されたり、最前線で捨て駒にされるなど、まともに人として扱われないケースが多かったとされている。


もともと会津藩は江戸幕府との結びつきが強く、それゆえに藩内は(それこそ、幕末の世にあってなお)武士至上主義の旧態依然とした古臭い体制がまかり通っており、武士以外の領民たち…とりわけ農民は長きにわたる搾取と理不尽な差別による農奴同然の扱いに苦しんでいた。

元からがこんな有様だったため、このような状況下にあって領民の士気などなおさら上がるはずもなく、彼らの間では不満が急速にたまっていったのである。


会津戦争編集

慶応4年8月、白河・二本松藩を落とした新政府軍は会津への侵攻を決定、会津藩の防備の手薄な母成峠へと進行した。母成峠はわずか1日で陥落し、新政府軍は若松城下への侵入に成功したが、これにも理由があった。


いうまでもなく領民たちの反乱である。


先に述べたように徴税・略奪などによって領民たちの怒りは爆発寸前となっていた。

さらには「新政府軍の拠点にしないようにする」という名目で、一部の村では会津藩の武士による焼き討ち(いわゆる「焦土作戦」である)まで起きてしまった。

当然のごとくこの焼き討ちは完全に裏目に出る結果となり、食うものも、そして帰るべき家すらも奪われた領民たちは新政府軍を「圧政からの解放軍」と見做して「官軍様」とよんで歓迎し、金品および人馬の徴発や情報の提供などに積極的に応じる一方、会津藩に対しては「会賊」と呼び捨てにして逃散したり命令をボイコットするなど、会津藩はこの戦争を通じて領民たちの信頼を大いに失うことになった。


結局、会津戦争は「新政府軍・会津藩領民VS会津藩武士」による戦争となり、1か月後の9月22日会津藩は降伏、藩主・容保らは江戸へ護送されることになったが、「戦に負けたのに、切腹もせずにおめおめと生き残った殿様」の見送りに出てくる領民は一人もおらず、尻を向けて淡々と農作業を続けていたという。


こうして、会津松平家による会津藩支配は終わりを告げ、数年後には廃藩置県により「会津藩」そのものが消滅することとなる。


尚、会津攻めの司令官だった板垣退助がのちに自由民権運動に身を投じた理由の一つに会津戦争での体験が元になったされる。


ヤーヤー一揆編集

会津戦争は終わった。

しかし、これまでの戦争で金・食料・家など様々なものを失った領民たちの怒りは収まらず、戦争終結から10日後の10月3日、会津藩の中心地から遠い大沼郡(現三島・金山・会津美里町、昭和村)で一揆が発生した。

彼らの要求は


・村役人を村人の選挙で選べるようにする。

・専売制の廃止と当面の年貢の免除。

・質物帳(借金の明細書)の破棄。

・労働力徴発の廃止。

・小作料の廃止。


…など、「会津藩による支配の完全無効化」「生活立て直しのための猶予期間」「借金の帳消し」といった類の要求を中心として多岐にわたっている。


その後、一揆は短期間で会津藩全土へと波及し、15日に河沼(会津坂下・柳津町、湯川村)・会津郡北部(現会津若松市、つまり会津藩のおひざ元)、16日に耶麻郡(現西会津・磐梯・猪苗代町、北塩原村)、28日に会津郡南部(現下郷・只見・南会津町、檜枝岐村)で同様の要求を掲げた一揆が起こった。この4郡は会津藩の主要地域であり、事実上の全藩一揆となったのである。


なお、事実上の新たな統治者となった明治新政府は一揆勢の鎮圧に消極的だった(明治政府は一揆勢に同情的であえて放置したとも、会津戦争後のさらなる新政府軍側の消耗を嫌ったためともいわれている)うえ、彼らとの交渉には参加せず、あくまで村役人との直接交渉に任せたため要求のほとんどが通ることとなり、12月1日一揆は解散した。


余談編集

  • 実は会津藩の移封先については、斗南のほかに猪苗代への移封も検討されたが、ヤーヤー一揆の恐ろしさを知り、とても会津で藩を存続させることはできないと考えたことから斗南へ移ったとの説がある。
    • 猪苗代は会津藩のかつての藩主でもあった蒲生家旧臣達が住んでいたため、会津藩内ではあったが松平家に対して心服していなかったから、という説もある。
  • この一揆のもともとの原因を作った藩主の松平容保だが、彼やその子孫たちの名誉のために付け加えておくと、彼は格別に暗愚な君主だったわけではない。
    • 参勤交代にはもともと高額な経費がかかる(これは大なり小なりどこの藩も同じだった模様)うえ、京都守護職はさらにさらに高額な経費が必要となり、容保でなくとも誰もやりたがらない(容保自身も当初は守護職就任を辞退する構えでいたとされている)役職であった。
    • そのため、容保の京都守護職就任は時の情勢や徳川家への報恩などで「やりたくなくてもやらざるを得ない」ところまで追い込まれた結果であり、ある意味では極大の貧乏くじを引かされた、気の毒な藩主であったともいえる。
  • 支配者層である武士階級はともかく、この一件のように被支配層だった町人や農民階級も明治政府の支配下に置いては賊軍の領土ということで薩長土肥主体の明治政府から様々な冷遇が行われており、これらが現在の会津地域(および福島県)と山口県との確執につながっている。

関連タグ編集

戊辰戦争 会津藩

会津戦争戊辰戦争を参照。

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