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平松武兵衛

ひらまつぶへえ

平松武兵衛は、日本の幕末において会津藩の軍事顧問を務めたプロイセン人商人。
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概要編集

本名︰ジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell)


プロイセン王国(現:ドイツ)出身の商人であり、幕末日本において活動し、戊辰戦争では会津藩の軍事顧問となって藩主の松平容保から「平松武兵衛(ひらまつぶへえ)」の名を与えられ、幕府軍の一員として戦いにも参加した。


生涯編集

父の仕事の都合で当時はオランダ植民地領として支配されていたインドネシアで育ち、開港した直後に弟のエドワルドと共に日本横浜にやって来た。

そこで外国人居留地のはずれに、兄弟で牧場を開いて牛肉や牛乳を販売し、ここで上総国出身の商人・前田留吉が彼らから搾乳のやり方を学び、武蔵国大田村で自身も牧場を経営して牛乳の販売を始めたのが、日本初の牛乳屋とされている。


商才に加えて語学が堪能だったヘンリーは、万延元年(1860年)にプロイセン王国が日本と通商条約を結んだことにより、文久2年(1862年)に初代領事として赴任したマックス・フォン・ブラントの書記官となる。

書記官の時代は、慶応3年(1867年)に弟と共に馬車で江戸に向かう途中に、沼田藩士の三橋昌に襲撃される事件に遭い、ヘンリーが拳銃で反撃した際に誤って下駄商の雇人を負傷させてしまうが、沼田藩は後に三橋を拘禁したことを幕府に報告し事件は終息する(ヘンリー・スネル襲撃事件)。


大政奉還が成されると、長岡藩の藩主・牧野忠訓と家老の河井継之助に出会い、それを機に書記官を退職して、同じくスイス領事の書記官を退職した弟・エドワルドと、会津出身の日本人女性である彼の妻と共に新潟へ移住し、弟はスネル商会を設立して河井の仲介を得て会津藩の家老・梶原平馬と武器の取引を始める。


戊辰戦争が始まると、ヘンリーは北越戦争の際に梶原に連れられ、米沢藩の家老・千坂高雅から会津藩の軍事顧問になってもらえないかと頼まれ、承諾した彼は藩主の松平容保から「平松武兵衛」の名と屋敷を貰い、羽織袴に彼から授かった小脇差を差した和装で、幕府軍の一員として戦場に立ち、政府軍に大砲を撃ち込み百発百中させる活躍をみせたという。


明治維新後の明治2年(1869年)に、ヘンリーは日本人の妻であるおようと、約40人ほどの会津若松の人々と共に、アメリカカリフォルニア州に移住し、サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。

しかし、日本茶と絹の生産のために持ちこんだ作物が、天候が原因で上手く栽培できずコロニーの経営が行き詰まり、ヘンリーは資金調達のために日本へ向かったが、消息不明となる(暗殺説もある)。


関連タグ編集

日本史 江戸時代 幕末 明治時代 プロイセン(ドイツ) 青い目のサムライ 会津藩

三浦按針…同じく日本名を与えられて家臣に取り立てられた西洋人。

ジュール・ブリュネナポレオン3世から江戸幕府に軍事顧問団として派遣されたフランス軍人。榎本武揚の軍に参加し、明治政府軍と戦った。

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