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ジュール・ブリュネ

じゅーるぶりゅね

ジュール・ブリュネとは、19世紀後半のフランスの軍人。映画『ラストサムライ』のモデルとなった人物。
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概要編集

1838年フランスに生まれる。父親は竜騎兵隊の獣医だった。

陸軍士官学校を卒業し砲兵士官となる。

メキシコ出兵に参加して功績をあげ、レジオンドヌール勲章シュバリエ工賞を授与されていた。


1867年、江戸幕府との関係を強めるナポレオン三世によってシャルル・シャノワーヌ大尉を隊長とする士官5名を含む総計15名の軍事顧問団の派遣が決まると、中尉であったブリュネは副隊長として初来日。横浜にて伝習隊を訓練する。

翌年勃発した戊辰戦争鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた前将軍徳川慶喜は新政府に恭順をしめして4月11日には江戸城が開城されると、軍事顧問団は本国から帰還命令を受けるが、大尉に昇進していたブリュネは4名の部下は残留を決意。10月4日にフランス皇帝ナポレオン三世、陸軍大臣アドルフ・ニールにフランス陸軍を辞職し榎本軍と合流する旨を記した手紙を認め、仮面舞踏会の扮装をしたまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流した。

この時ブリュネらの他、フランス海軍からの脱走者2名、横浜在住の元軍人3名も含め、合計10名のフランス人が旧幕府軍に加わっている。


箱館に到着した榎本らは蝦夷共和国を設立。ブリュネは陸軍奉行大鳥圭介を補佐し、部下4名はそれぞれ連隊の指揮官となった。

1869年5月、新政府軍による総攻撃がはじまると、ブリュネらはフランス船に乗り箱館を脱出した。


本国に送還されたブリュネは裁判にかけられるが、世論はブリュネらに好意的であり、半年の停職と降格は免れなかったものの軍への復帰を許された。

日清戦争後の1895年、ブリュネは明治日本の近代化に貢献した外国人として明治政府より勲ニ等旭日重光章を贈られる。これには明治政府に参加していた榎本らの上奏があったとされる。


1898年には陸軍参謀総長に就任。

またフランスに留学しにきた日本軍人の面倒をみていたという。

1911年、パリ近郊の自宅にて死去。


逸話編集

●ブリュネ達が本国の命令を無視してフランス陸軍を辞職して日本に残留しようとしている事を軍事顧問団隊長のシャノワーヌ隊長は察していたが黙認していたともいわれ、前任のレオン・ロッシュの本国政府を無視した幕府へ過度な肩入れの失点を補うべく、明治政府との友好関係に尽力していた駐日大使マキシミリアン・ウートレーから非難されている。


●画力の才能があり、メキシコ出兵時に描いたものはフランスの新聞に掲載され、メキシコと日本を描いた肖像画、風景画も多く残している。


●徳川慶喜より贈られたと伝わる日本刀3本が、今も子孫の元に残っている。


関連項目編集

ラストサムライ

幕末


創作作品でのジュール・ブリュネ編集

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