概要
趙家は代々、武将の家柄であり、匡胤も漢(後漢。光武帝によって復興した後漢とは別)の武将であった。しかし、不遇の身であり、地方に左遷されていた。このとき、ある寺の住職に勧められ、漢の有力者である郭威に仕える。郭威は一兵卒から枢密副使にまで出世した立志伝中の人物であり、漢の建国にも功績があった。あまりに高い名声に、漢の皇帝からも恐れられ、郭威は一族を皆殺しにされるなどしたために逆襲し、ついには皇帝を殺し、自ら帝位について周(後周。古代に姫発によって建てられた周とは別)を建国した。
郭威の死後、郭威の家族は皆殺しにされていたため、周の帝位を継いだのは養子の柴栄(世宗)であった。柴栄は名君と呼ばれるほどの有能な人物で、趙匡胤を近衛軍の司令官に任命し、分裂していた中国の統一に動き、次々に周辺国を平らげた。趙匡胤も忠誠心が厚い武将として柴栄に仕え、ある時、敵国が柴栄と趙匡胤の仲を裂こうと、趙匡胤に莫大な贈り物をしたが、趙匡胤はこれを全て柴栄に献上しており、君臣の間に亀裂は生じなかった。
しかし、柴栄は遠征中に若くして死亡した。その後は柴栄の子・恭帝が帝位を継いだが、7歳と幼かったため、軍人たちは当時、軍の司令官であった趙匡胤を担ぐことになった。趙匡胤は、当初は(ある程度の芝居はあっただろうが)全く気乗りしなかったが、趙匡胤の弟である趙匡義にも説得されたので「帝の一族やその臣民に危害を加えないこと」を条件に引き受け、ついに宋を建国した。
その後、柴栄の天下統一事業を引き継ぐ形で、趙匡胤は周辺国を次々に平らげ、ほぼ天下統一が間近に迫った976年、50歳で急死した。
性格
中国史上でも名君と呼ばれる一人であり、特に筋道を重んじた人物である。皇帝でありながらも、家臣に対しても強引に命じることはせず、辛抱強い話し合いを重んじた。また、これまで中国では、禅譲をするときは前の皇帝一族は、口では生活を保証すると言いながら、皆殺しにするのが慣例であったが、趙匡胤はこれを単なる口約束とせず、自分に禅譲した柴一族の命はしっかりと守った。これは趙匡胤の死後も固く守られ、柴家は宋が滅びるまで血脈を保った。
戦を厭うことはなかったが、血なまぐさい行為は嫌っており、天下統一に功績のあった武将でも、命令を無視して住民を虐殺した者などは、恩賞を与えるどころか降格させられている。
他にも、言論を理由に官僚を殺してはならないと命じており、実際に従来の中国では殺されてるような言動をした官僚が降格だけで済み、後に復帰している例も宋では多い。
無論、ある程度、他人の目を気にしての行動もあるだろうが、それができること自体、皇帝としては異例とも言えるだろう。