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陰陽師

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おんみょうじ

奈良・平安時代以降から存在した職業。専門は方位学と天文学による占術であり、その延長として退魔行を成すこともあった。明治時代の天社神道禁止令で公的には消滅した。

陰陽師とは――

  1. 律令制の日本において陰陽寮に設置された官職。
  2. 陰陽道の知識・技能を有する者のこと。占術・呪術・祭祀などを行った。
  3. 夢枕獏による小説と、それを原作とする漫画、映画、ドラマ。→陰陽師(小説)
  4. 様々なファンタジー作品に登場する職業(キャラクター)。後述。
  5. 中華人民共和国ソーシャルゲーム。→陰陽師(ゲーム)

職業としての陰陽師

飛鳥時代から存在した律令制における役職の一つ。

陰陽道を駆使し、様々な現象を検証することを専門とする学者占い師をミックスしたような国家公務員である。開祖は奈良時代の学者政治家である吉備真備とされる。奈良時代の律令制においては中務省配下の陰陽寮に所属し、占筮による占いや地相による土地の吉凶を調べる職務を担当した。陰陽師の筆頭は陰陽博士で、陰陽師見習いに当たる学生の指導に当たった。陰陽寮では他に天文博士(天文を観察し異変があれば奏上する)、暦博士(を作成する)とその指導下にある天文や暦専門の学生たちがおり、時代が下るとこれらも賀茂家や安倍家といった陰陽師の家系が担うことになる。(なお、賀茂家・安倍家以外にも大春日家と言われる家系も、いわば「陰陽道の名門」とされてきたが、賀茂家・安倍家が「陰陽道の名門」と見做されるようになった頃から、陰陽道の歴史からは消えていった)

陰陽道は、当時(奈良平安時代)日本で最先端の学問とされた仏教道教に、神道修験道の要素を混合させた日本独自の学問であり、それを成す彼らは当時の日本の一大頭脳集団でもあった。その名声が頂点に達したのが安倍氏の祖たる陰陽師安倍晴明であり、祈りによって雨を降らせ病を癒し怨霊を鎮めるなど史実と伝承とを問わず縦横無尽に活躍する(『小右記』『御堂関白記』『今昔物語集』ほか)。

平安時代ごろの陰陽師における主な仕事は天文学方位学による占術で、「地相」という風水とは似て非なる方位学や占星術などの天文学を用いて吉凶を占う。また自然地理学や気象予報にも長け、都市計画や暦・節季の予想など、占いばかりでなく現在に通じるような学術的な研究も多くなしている。この延長線として退魔行を成すこともあり、現在ではこちらの側面の用が有名であろう。ただし、呪術は本来は「呪禁師」の領分で、陰陽師が職分を侵蝕して取って代わったという経緯もある。特に平安時代の貴族たちは政争を繰り返し、菅原道真平将門など恨みを持って敗死した貴族たちが怨霊になったと恐れていた。政争の度に怨霊が生まれ、かくして無数の怨霊に怯える貴族社会こそが、陰陽師台頭の一因になったともいう(『妖怪と怨霊の日本史』pp.158)。

また、平安時代ごろは「」と「物の怪」は厳密に区別されており、対処法を間違える(例えば、物の怪を調伏する修法を神が起した災いを鎮めるのに使ってしまう)と多大な副作用が有ると信じられていた。

つまり、平安時代においては、同じく「怨霊を呪術的な方法で鎮める」場合でも、その怨霊が「物の怪」レベルの存在と「祟り神」と化した場合とでは、やり方が全く違ったのである。

この為、何らかの災い(病気など)を呪術的な方法で鎮める場合は、修法を行なうのが密教僧や修験者であっても、修法を行なう前に陰陽師が「災いを起こしている存在」の正体を占いで突き止めるのが一般的であった。

(なお、この「神」と「物の怪」の区別は室町時代ごろから曖昧になっていく)

中世以降、朝廷の政治力の後退によって朝廷の官人である陰陽師たちも勢いを失っていった。室町時代足利義満神仏による朝廷の権威に対抗すべく陰陽道を重用したことで、晴明の子孫安倍有世が台頭するが、次の将軍足利義持は朝廷と神仏を重んじたため長続きしなかった。それでも有世の子孫は土御門家を名乗って陰陽道の職分を独占し、江戸時代には幕府から暦を作成する権限を委任され、土御門神道を形成して神道としての側面も強めていった。

明治初期にはついに陰陽寮が近代科学の導入の妨げとして廃止された。これにより、官職としての陰陽師も存在しなくなった。陰陽道の情報までなくなったわけではないため、学び手や個別の部分の実践者は存在することはできるが、定義上、その人達は陰陽師ではない。

また、官職ではない民間の陰陽師にしても確かに陰陽筋と言う代々陰陽師だった家系はあるが、それも宗家制度があった当時からから土御門家からの免許は世襲する事は出来ず、代替わり事に個人として新たに免許を取らなければならない制度であった。この為先祖が陰陽師であっても陰陽師と名乗る事は出来ない。

天社神道禁止令によって、頒暦商社に参加できた暦師や神道化し家業を継続出来た萬歳師を除いて、多くの配下陰陽師は失職し困窮を極めた。彼らは神職(教派神道を含む。神社神道に参加した人の中には後に「土御門神道同門会」結成に参加する者もいた。)、僧侶(山伏を含む。東北などでは山伏と陰陽師の兼業者も多かった。)に転業して宗教活動を継続するか、あるいは医師・薬剤師(土御門家が蛍光武威丸という薬を売っていたことから分かるように医師が陰陽師を兼ねている例も多く、そのような医陰両道の者はその服装から「永袖者」と呼ばれた。)や醤油や酢などの醸造業やそれらの販売業(かの有名な蘆屋道満の子孫がこのパターンで現在のオリバーソースである。その他元陰陽師がタマノイ酢を販売していた記録も残っている。)などへの転職を余儀なくされた。土御門家による組織化は1928年の大日本陰陽会(現在の日本易学連合会)や1942年の土御門神道同門会まで遅れ、その結果困窮をみかねたかつての上級幹部自身が救済のために自ら組織を作ったり(星合家の日本陰陽易道協会など)、陰陽道の影響があった教派神道の金光教に参加したケースが相次いだ。

金光教以外で教派神道に加わったグループとしては土佐物部村のいざなぎ流が神道修成派に加盟、備中の上原太夫が神理教に加盟、この他御嶽教に加わった但馬の石田栄公のグループ(昭和21年日之本教として独立。)や天理教に加わった京都府の奥六兵衛の明誠社(1888年に神習教へ移籍する天輪王明誠教団と天理教に残留する斯道会に分裂。斯道会は非陰陽師が主導権を握った事で陰陽道色は消えていったが、教会自ら地鎮祭を行う文化は天理教全体に定着し、また近年まで一部の傘下教会が高島暦や占いを活用する事を斯道会が黙認する風潮が残った。斯道会は雨乞いづとめによる一村改宗など積極的な布教により現在では天理教の1/3を占める一大派閥となる。)などがある。

第二次世界大戦後に土御門神道は復興されたが、陰陽道の方はされていない。陰陽師は国家が任命するものであり、現代においては国家公務員である必要があるが、現代ではありえない話である。

陰陽師の資格を新たに認定する制度は現存しないため、いま「陰陽師」と名乗る人がいたとしてもその称号は文字通りの「自称」である。

また、陰陽道は本来は国家機密だったのだが、次第に知識が貴族や民間にも流出していった。陰陽師とは朝廷に仕える身分を指すため、民間にて陰陽師と同じ力をふるう者は一般に「法師」と呼ばれていた(ただし、当時は陰陽師に限らず上流階級出身でない知識人が僧形である場合は少なくなかった)。その有名な例が播磨の法師蘆屋道満道摩法師、別人説もあり)であり、晴明と勝負をしたという記録も残っている(『峰相記』)。鎌倉時代には安倍氏の傍流が幕府に仕えて民間に陰陽道を広め、『吾妻鏡』にも多くその活躍が記されている(斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』)。斎藤によれば、山本勘助をはじめとした戦国時代の軍師たちにも陰陽道由来の知識を持つものが多かったらしい。

土御門家配下となった歩き巫女や歩き白拍子など、法師陰陽師の女性版、いわゆる女陰陽師は「院女」と呼ばれた。

創作内における職業としての「陰陽師」

現在最も多くの人が思い浮かべる「陰陽師」のイメージは主にこちら。『帝都物語』や夢枕獏の小説『陰陽師』等をきっかけに和風ファンタジーを彩るキャラクターとして多くの陰陽師が創造された。

今では漫画アニメゲーム小説など各種媒体に、陰陽師を職業とするキャラクターが登場する。学者というより、もっぱら霊能力者、または超能力者(超常能力を持つ人物)として描かれる傾向にある。式神を操り、真言などの呪文で術を発動させるなど、主に和風ファンタジー世界における魔法使い召喚術師ポジションに収まっている。信長の野望onlineでは、攻撃系魔法の専門家となっている。

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