藤原千方
ふじわらのちかた
- 平安時代中期の実在の人物。 ⇒ 藤原千方
- 物語に登場する架空の人物。この項で説明。
藤原千方は、『太平記』巻第16「143 日本朝敵事」の中で、紀伊名草の土蜘蛛・東国の平将門とともに朝敵としてその名が見える飛鳥時代の豪族、陰陽師。もちろん架空の人物である。
配下には金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四鬼を従えている。謡曲『現在千方』では風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼の四性の鬼。
Wikipedia日本語版をはじめとして、各所で平安時代中期の豪族・藤原千常の子である藤原千方との混同や同一視がみられるが、モデルとなった人物というわけでもなく、同姓同名の別人である。
来歴
天智天皇の時代、伊賀・伊勢で朝廷に叛逆を企てた藤原千方は、四鬼を従えて傍若無人の振る舞いをしていたという。鬼の神変を前に凡夫の智力では敵わず、伊賀・伊勢は王化に従わなかった。天皇の宣旨を受けた紀朝雄はかの国に下ると和歌を一首読み、鬼に向けて送りつけた。
「草も木も わが大君の 国なれば
いづくか鬼の 棲なるべし」
草も木もこの国のものはすべて天皇が治めているので、この国のどこに鬼の居場所などあろうかという朝雄の歌を見た四鬼は「悪逆無道な者に従い、善政有徳の君に背いていた、天罰は免れない」と四方に失せ去った。和歌の言霊に勢いを失った千方は朝雄に討たれた。
『田村麿鈴鹿合戦』
上記の来歴は『太平記』による説話だが、藤原千方の説話は祝言の語り物として中世にはすでに流布していたようである。
能『田村』『土車』などにも取り入れられ、「草も木も わが大君の 国なれば いづくか鬼の 棲なるべし」の和歌は多少改められてはいるが『高砂』『難波』『田村』『土車』『大江山』『羅生門』『土蜘蛛』などに引用されている。
特に『田村』での引用は、鈴鹿山の鬼神(大嶽丸)に対して坂上田村麻呂が「千方という逆臣に仕えし鬼のように滅ぼしてしんぜよう」などと挑発したためか、江戸時代中期の義太夫節浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』では桓武天皇の時代に復活した千方が周翁居士と名乗り、紆余曲折あって田村麻呂が討伐するという後日談的物語が作られた。
『光明千矢前』
江戸時代中期に江戸で出版されていた草双紙という絵入り娯楽本に『光明千矢前』という作品があり、前述の『田村麿鈴鹿合戦』も受けて酒呑童子説話の後日談的物語が作られた。
『光明千矢前』は随所に酒呑童子説話や『田村』『田村麿鈴鹿合戦』など坂上田村麻呂伝説のパロディが見られる二次創作である。
大江山の酒呑童子を討伐した源頼光だが、頼光に復讐を企てていた茨木童子の子であるいばな童子は鈴鹿山で坂上田村丸に滅ぼされた藤原千方の蘇生を三色童子と黒塚童子に提案し、死骸を掘り出し魂を入れて蘇生させると、千方を大将として人々を襲うようになった。
大江山に鬼が集まりだしたことを知った頼光は、頼光四天王とともに田村堂(清水寺田村堂)に参詣して田村丸に先勝祈願をした。大江山に攻めこんだ頼光一行がいばな童子、三色童子、黒塚童子を始めとする鬼たちを討つと、旗の上に田村丸が現れて千の矢で千方を討伐した。
千方が使役した鬼の名前は金鬼・風鬼・水鬼とあり、作品や地域伝承によっては火鬼・土鬼と入れ替わるなど、五行思想の万物(火・水・木・金・土)5種類の元素に基づいている(木には陽気=風という意味もある)。
『太平記』では、天智天皇の御世(飛鳥時代)の人物として設定されているが、説話が語られた中世の京の民衆には陰陽師などある種の妖魔(式神)を使役する人間が存在すると認識されていたことや、千方の説話の成立時期が鎌倉時代から室町時代頃であることを考慮すれば、千方は陰陽師というイメージを持たれて創出されたのだろう。
また隠形鬼のみ、中世以降に信仰を集めた摩利支天の隠形法がモチーフだったりする。
『太平記』「日本朝敵事」でも取り上げられ、藤原千方の説話と密接に関係している『沙石集』の中世神話、つまり中世日本記や第六天魔王譚といった中世神話群の影響も受けているためであろう。もしかすると千方は修験道や密教の行者といった性質もイメージされているのかもしれない。
──もっとも藤原千方の説話の地元では伊賀忍者の祖として推されているのだが。
藤原という姓だが、これは語るまでもないが非常に由緒のある姓である。
日本各地に広まっているが、元々は大化の改新で功績のあった中臣鎌足個人に与えられたものであり、当時藤原姓を持っていた人物は非常に限られていた。
そして、この姓を与えた人物こそ上記にもある天智天皇なのである。
こうした背景を踏まえると、天智天皇の時代に藤原姓を名乗っていた千方はかなり特別な人物だったことになる。
これは作り話にありがちな設定の杜撰さなのか、あるいは何等かの複雑な背景を意図したものなのか。その点に思いをはせてみるのも面白いかもしれない。
更に余談だが、化け物退治や平将門の乱で勇名を馳せた藤原秀郷の子に千方という人物がいる。
こちらは朝廷側の人間であり、父同様に関東を拠点とし、民衆を導いた功績で知られている。
埼玉には千方神社なるものがあるが、これはこの千方を偲んで建てられたものとされている。
同姓同名の二人だが、片や鬼を率いて朝廷に反旗を翻し、片や朝廷の御旗のもと徳政をしき死後は神として祀られるなど、互いに真逆の人生を歩んでいることに、何か歴史の奥深さを感じさせる。