曖昧さ回避
(他にも同名のキャラクター名等ありましたら追記お願いします。)
- 太鼓の達人の楽曲については「第六天魔王(太鼓の達人)」を参照。
概要
仏教において、仏道修行を妨げている魔のことを指す。他にも天魔・魔王・第六天魔・第六天魔王波旬・天子魔・他化自在天などとも呼称される。
仏教における三界(無色界、色界、欲界)のうち欲界の最高位が第六天であり、天主である第六天魔王が住処としている。この天を住処とする天人は、下界の衆生(人間はじめ全ての生命)の快楽を自由に奪い、自らが享受することが出来る神通力を持つ。すなわち他の者に化ける能力を有する者であり、漢訳で他化自在天とされた。
「釈迦が悟りを開くのを邪魔した魔物の首魁=欲界第六天の王=他化自在天」と見做されるようになったのは、「第六天に住む天人は他者の喜びを自分の喜びに出来る」→「仏教が広まり、欲望による喜びを感じる者が下界から消えてしまえば、第六天に住む天人がい言わば『飢え死に』してしまう」という考えも一因と思われる。
中国仏教や日本仏教では、色界の四禅天の最高位である色究竟天を住処としている大自在天(摩醯首羅天)や、その異名である伊舍那天)と混同される事もある。
インド仏教とマーラ
インド仏教において欲界の頂である第六番目の天のことを「Para-nirmita-vaśa-vartin / パラ・ニルミタ・ヴァシャ・ヴァルティン」と呼び、この第六番目の天の主が「vaśa-vartin / ヴァシャ・ヴァルティン」であるとした。
ヴァシャ・ヴァルティンは釈迦の修行を妨げた「Māra Pāpīyās / マーラ・パーピーヤス」と同一視されていく。
漢訳仏典によると「Māra / マーラ」は音訳で魔、漢訳で殺者(殺すもの)とされ、「Pāpīyas / パーピーヤス」は音訳で波旬、漢訳で悪者(悪しき者)とされた。合わせて天魔波旬と漢訳される。中国仏教では3世紀半ばにはヴァシャ・ヴァルティン=魔王=マーラ・パーピーヤスとして第六天主、欲界王、欲界中最勝最尊などと位置づけて、早い段階から同一視されていたようである。
対してパーリ語仏典でヴァシャ・ヴァルティン=魔王=マーラ・パーピーヤスとして同一視されていくのは比較的後期の文献からである。
中国仏教と自在天
中国仏教ではパラ・ニルミタ・ヴァシャ・ヴァルティンを「他化自在天」、ヴァシャ・ヴァルティンを「自在天」と漢訳した。
一方ではヒンドゥー教のシヴァ神が仏教へと取り入れられたとき、シヴァ神の別名である「Maheśvara / マヘーシュヴァラ」は音訳で摩醯首羅、漢訳で大自在天とされた。またバラモン教の最高神であり、同時にシヴァ神の別名ともされた「Īśvara / イーシュヴァラ」は漢訳で自在天とされた。
ヒンドゥー教でのシヴァ神は1000以上の名前を持つとされ、仏教の経典においても大自在天の異名として魯駄羅(Rudra / ルドラ)、商羯羅(Śaṅkara / シャンカラ)、伊舎那(Īśāna / イシャナ)などがみられる。
このように漢訳仏典においてはヴァシャ・ヴァルティンとイーシュヴァラに同じ「自在天」という漢字表記を用いたことから、両者の混同や同一視は避けられなかったようである。
日本仏教と摩醯首羅
日本仏教になると漢訳仏典での自在天の混同や同一視がさらなる複雑化を生むことになる。
平安時代前期の天台宗の僧・五大院安然は『悉曇蔵』の中で、色界の頂の毘舎闍摩醯首羅、第一禅天(大梵天)の商羯羅、欲界の頂の自在天=魔王=伊舎那天=魯駄羅天はすべて同じ魔王の現れであり、仏法で常に降伏される存在であると解釈し、摩醯首羅には三種があるとの教説を解いた。
この魔王観が中世日本紀の成立に影響を与えたと考えられている。
法華宗における第六天魔王
日蓮の著作(御書)では、仏典の記載にあるように世を惑わす魔王としての側面が強調されるが、神仏の名を記した法華曼荼羅(十界曼荼羅、題目曼荼羅)にもその名がある。
「神国王御書」では仏が様々な神々の師であり主であり親であることが語られているが、その中に第六天魔王も含まれている。曼荼羅での記載は仏と、その本懐たる「南無妙法蓮華経」を中心とする秩序にかの存在も包括されている、という意図の現われであるのかもしれない。
「辦殿尼御前御書」等では法華経の信徒の敵対者としても記され「最蓮房御返事」ではその干渉によって正しい師を邪師とし、善師を悪師に変えているが、自分(日蓮)は用心する事でそれを防いでいると語っている。
「浄蔵浄眼御消息」では法華経の信徒に対し十の方角の仏たちの姿を恐れる事もあり逆に供養する側に回るという。
「種種御振舞御書」では法華経の護持者に対して強い嫉妬の念を抱いていると記され、単なる「魔性の存在」に留まらない複雑なパーソナリティが持たされている。
中世神話における第六天魔王
平安時代後期頃から『古事記』『日本書紀』『風土記』など記紀神話(いわゆる日本神話)に基づきながらも、本地垂迹説などに則りつつ仏教の諸天諸仏と同一視して作られた数々の神話群である中世神話(中世日本紀)には、第六天魔王と天照大神が三宝(仏・法・僧)を忌む契約したという第六天魔王譚がある。
日本では仏教における第六天魔王ではなく、中世神話における第六天魔王が広く信じられていた。
中世神話の起源は建久2年(1191年)以前に成立した『中臣祓訓解』とされ、鎌倉時代中期にかけて『沙石集』『太神宮参詣記』などの文献にみられる。
弘長年間(1261~1264年)に成立した『沙石集』では著者が伊勢神宮に参拝したときに神官から聞いた話として「伊勢神宮が三宝を忌み、僧や尼を参拝させないのには理由がある。この国がまだ無かった頃、大海の底に大日の印文がった。天照大神が鉾で探り当てると滴の露が落ちた。第六天魔王が遥か彼方からその様子を見て「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」と日本が仏国土となり魔界の障りになることを危惧して滅ぼそうと天下った。天照大神は第六天魔王に対して「我は三宝の名も言わない、自らにも近づけないから帰り給え」と約束してたので第六天魔王は天に帰っていった」とある。
弘安9年(1286年)頃に伊勢神宮の祭主家・大中臣氏出身の僧・通海が記した『太神宮参詣記』(『通海参詣記』)では、第六天魔王と仏法を忌む約束するのは伊弉諾と伊弉冉となっている。伊勢神道においては、色界の四禅天(色究竟天)に在す摩醯首羅天の異称である伊舎那天と伊弉諾は同体視されて習合する。
このように当時『古事記』『日本書紀』を読めたのは神官や京の貴族など一部の特権階級の人物に限られていたため(更に言えば、当時の書物は基本的に書写なので、現代では有名な本・書籍でも部数が有るとは限らなかった)、庶民の間では別天津神は知られていた神ではなかった。一方では伊勢神宮にとっても庶民の間で広く浸透していた仏教は無視できないため、上記のような新たな解釈による中世神話群が誕生した。
天照大神と大日如来を同一視して、日本を治める証文を第六天魔王から請い受けたという中世神話の第六天魔王譚は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて記された『神道集』『百合若大臣』『平家物語』屋台本「剣巻」などにもみられる。
『太平記』「日本朝敵事」では、天照大神が三宝を忌む約束をしたことで怒りを鎮めた第六天魔王は、天照大神の子孫を日本の主(天皇)とし、日本の主に反乱する者は第六天魔王とその眷属が朝敵を懲らしめる事を誓い、約束の証拠として天照大神に神璽(八尺瓊勾玉)を渡したとある。
『太平記』は『田村の草子』に登場する第六天魔王の娘とされた立烏帽子(または鈴鹿御前)など御伽草子世界にも影響を与え、鬼女紅葉伝説では彼女の両親が第六天魔王に祈ったあとに彼女を授かったなど、庶民から大名に至るまで第六天魔王譚が広く流布していく。
信仰対象として
日本では信仰の対象となっており、前述の中世神話における第六天魔王譚が東国の武家社会の間で広く浸透したため、この神格を祀る「第六天神社」が旧武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)地域を中心とする関東地方に点在している。一方では西国で信仰された形跡はあまりみられない。
また、関東では水神・龍神と習合しているケースも有る(例:玉川上水の経路近くに有る杉並区の上高井戸第六天神社など)。
明治時代の神仏分離政策により、祭神がオモダル・アヤカシコネ(神世七代を構成する神のうちの二人)に変更され、社名を変更する例もあった。(平安名すみれの設定上の実家である穏田神社など)
大六天王社の総社とされる山倉大神(千葉県香取市)はこの両神を祀らず、高皇産霊大神、建速須佐男大神、大国主大神を新たに勧請した。元々の祭神としての「大六天王」は別当寺院であった山倉山観福寺に遷座され、以降そのままの神名で祀られている。
墨田の第六天社も神仏分離の際高皇産霊大神に祭神を変更しており、社名もその別名である高木の神から高木神社と改めている。
観福寺に伝わる「山倉山大六天王畧縁起」では大日如来の眷属とされ、悪鬼魔軍を面縛(両手を背中で縛り上げる事)するという退魔系の権能を持つ神として位置づけられている。
魔王と呼ばれた人物
第六天魔王と呼ばれた、自称した人物には以下の者が挙げられる。
特に足利義教と織田信長が言われており、義教を初代、信長を二代目とする向きもある。
足利義教
天台座主を務めた経歴があるにもかかわらず叡山を焼いたりしたため言われた。また足利持氏やその遺児たち(成氏の兄である義久・春王丸・安王丸)らを始めとする敵対者への容赦のなさなどから「万人恐怖」と言われたりした。
織田信長
こちらは第六天魔王を自称。義教の死後、約百年後に生まれた人物。
元亀4年(1573年)、甲斐の豪将・武田信玄が、織田信長軍による一向一揆や造反する寺社への苛烈な攻撃を牽制すべく出した手紙に「天台座主沙門信玄(天台宗の代表たる信玄)」という署名をしていたのを見た信長は、これに対抗して『第六天魔王信長』の署名で信玄に手紙を返したという。
天台宗は当時でもまだまだ強い権力を持ち、日本仏教の総代として考えられていたため、「信玄が仏教の代表者を名乗るなら、自分は仏教を敵とする魔王だ」というブラックジョークにも似たニュアンスを込めたらしい。
敵対者への容赦の無さ・この時代トップの型破りさ・尋常ではない統率力やカリスマ性等と共に、彼のこのエピソードが現代のフィクション界における信長の、あの燃え盛る炎の向こうで高笑いしてそうなイメージに繋がったことは想像に難くない…
能の「第六天」においては解脱上人を堕落させようと第六天魔王が眷属を率いてやってくるも、上人の祈りに応じて顕現したスサノオノミコトに宝棒で打ちすえられて逃げ出すと言う役回りで登場する。
信長は天台座主沙門信玄を解脱上人に見立て、自分はそれに災いをなそうとするも逃げ出してしまう第六天魔王に過ぎないと謙遜して自称したという説も存在する。
一方では、庶民の間でも記紀神話ではなく中世神話が広く流布された時代であり、前述の能「第六天」が中世神話に則る作品であることや、『平家物語』『太平記』など武士の教養としての軍記物でも中世神話に触れていたであろう信長と信玄にとっての第六天魔王は、中世神話の天照大神との契約説が共通認識であったとの指摘もある。
日本の三宝(仏・法・僧)の代表を名乗る信玄を日本を乱す朝敵に見立て、天照大神の子孫である日本の主(天皇)を朝敵から守護する契約をした第六天魔王を信長が名乗ったことになる。
いずれにせよ上記の逸話について記された唯一の史料として、天文18年(1549年)から天正8年(1580年)までのイエズス会の宣教師・修道士らの活動記録である書簡をまとめ、1598年にポルトガルで刊行された『耶蘇会士日本通信』の1573年4月20日付けのルイス・フロイスの書簡が挙げられる。
この史料を村上直次郎が翻訳して1928-1928年に刊行された『耶蘇会士日本通信』(異国叢書)の中で、「テンダイザス・シャモン・シンゲン」の信玄の署名に対して「ドイロクテンノ・マウオ・ノブナガ」と信長が署名して返信したとある。
しかし信長自身が第六天魔王を自称したり、そのような署名をしたということを立証する史料は見付かっておらず、『耶蘇会士日本通信』の翻訳についても完全とはいえないとの見方もあるため、第六天魔王を自称したかについての信憑性はあまりない。
戦国時代の人物の主な異名タグ
- 石田三成:鋭利なる吏僚
- 今川義元:海道一の弓取り
- 上杉謙信:越後の龍
- 北条氏康:相模の獅子
- 里見義堯:房総の狼
- 柴田勝家:瓶割り柴田
- 伊達政宗:独眼竜
- 最上義光:羽州の狐
- 毛利元就:謀神
- 長曾我部元親:鬼若子
- 島津義弘:鬼島津
- 黒田官兵衛:今世の張良
- 斎藤道三:美濃の蝮
- 真田幸隆:攻め弾正
- 真田昌幸:表裏比興の者
- 真田幸村:日本一の兵
- 武田信玄:甲斐の虎
- 立花道雪:鬼道雪
- 立花宗茂:剛勇鎮西一
- 竹中半兵衛:今孔明
- 佐竹義重:鬼義重
- 龍造寺隆信:肥前の熊
- 豊臣秀吉:木綿籐吉
- 上泉信綱:上野国一本槍
- 長野業正:上州の黄班