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鬼一法眼

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きいちほうげんまたはおにいちほうげん

『義経記』に登場する伝説の陰陽師。平安時代末期から鎌倉時代初期に一条堀川を拠点に活躍した陰陽師として、そして兵法家としても知られる。

鬼一法眼とは、伝説上の人物である。

概説

源義経の伝説を記した軍記物語『義経記』巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」に登場する法師陰陽師(当時の公務員としての陰陽師ではない在野の陰陽師)。一条堀川を拠点とし、若き日の義経(牛若丸)が彼の娘と懇意になって、鬼一法眼が秘蔵していた唐国の一大兵法書『六韜』を盗み見て、頭に叩き込んだと伝わっている。

『義経記』では、「文武二道の達者」と記され、生絹の直垂(ひたたれ、武士の公服)に緋威(ひおどし、紅い緒で小札板同士を繋ぎ合わせて甲冑として組み立てる構造)の腹巻(胴体部分をカバーする和式の)を着用し、金剛(藁や藺草等を編んだ草履)を履き、頭巾を耳の際の所まで被った姿で登場する。牛若丸と対峙した際の得物は大きな手鉾(薙刀に似た古い武器)だった。

『義経記』ではやられ役的ポジションながら、上記の通り立派な武具を持ち、配下を従える。異国の兵法書のほかにも、活版印刷が日本に持ち込まれ経本が普及する遙か以前、平安時代末期にあっては貴重なお経巻物、しかもかなりの分量のある『法華経』の経巻を所有する等、有力者であることが示されている。

地の文には「自然の事あらば、一方の大将にもなり給ふべき義経には仲を違ひ奉りぬ」ともあり、彼自身は特定の勢力につくというより状況に合わせて立ち位置を変え得る人物として描写されている。『義経記』以外のテキスト、作品では平家側に近いポジションの人物として扱われる傾向にある。

『義経記』では思考回路がぶっ飛んだ破天荒な若武者に無茶な要求をされ、断ったら見下されて一方的に敵視され、肉親を手玉に取られ、秘伝の書を盗み見られ、その始末をつける為に差し向けた妹婿でもある弟子を殺され、そのまま逃げられ、懇意になりながら独り残されたのを儚んだ娘が衰弱死してしまうという、牛若丸の被害者と言える人物。

のちに牛若丸の師匠とする伝承が語られた。江戸時代の創作作品では『判官みやこはなし』で平泉から牛若丸が鬼一判官のもとに軍学を学びにくるシーンがある。『鬼一法眼三略巻』においては、かつて仮面を被り鞍馬天狗に変装して武技を教えていたという設定が加えられる形で彼の師匠となっている。

『義経記』での描写

秘蔵の兵法書

「義経鬼一法眼が所へ御出の事」では代々の天皇の秘宝であり、天下に秘蔵された十六巻の書について語られる。『六韜』はそれを構成する兵法書である。『義経記』には『三略』についての直接の言及はない。

十六巻の書は兵法書というよりも読んだ者に超常的なパワーを与える神秘的な品として語られている。

太公望は八尺(2,4メートル)の壁を飛び上がり天に昇る徳を、張良は三尺(90センチメートル)の竹の上に上がり、それから何も無い虚空を駆ける力を得た。彼と同時代の武将樊噲がこれを読んで鎧を着て弓矢を射ると、兜の鉢(ヘルメット状の頭部を包んで護る部分)を貫通したという。

日本においてもこれを読んだ後に敵を討ち果たした例が挙げられる。日本にも超常的な例はあり、これを読んで反旗を翻した平将門は、田原藤太秀郷を差し向けられて追い詰められ、最後に一度に八本の矢をつがえて放ち、同時に八人の敵を射貫いた。

それからは読む者もいなくなり、ただ帝の宝蔵に置かれていたが、祈祷を任じられていた鬼一法眼に下賜された。

牛若丸の訪問

その評判を聞きつけた牛若丸は、鬼一の屋敷に訪れ、侍の詰め所にいた少年を介して強引に彼に会いに来て、初対面で異国の秘伝の兵法書を見せるようにと言い、一日で読んでそちらにも教えて差し上げる、とまでとのたまった。

鬼一は歯噛みするほど怒ったが、牛若丸は構わず、憎々しくは思いつつ鬼一が生かしてやることにし、内心で彼が師で自分が弟子ということにする。

いったんは引き下がった牛若丸は夜は四条に住む知り合いの僧のもとで過ごし、活動を続ける。

鬼一の娘の幸寿前に近づき、話ついでに鬼一が自分についてどう言っていたか、そして鬼一の家族構成や役職や結婚相手についての情報を引き出した。

そして、先日に鬼一を挑発した形となった牛若丸は、娘の結婚相手たちは舅の恥を取り去りに来ないのか、父に聞いて見ろ、と彼女に煽った。

「女であってもそんな事を言えば殺されてしまう」と断った彼女に対し、彼は自分の本当の目的を伝え、ひとには言わないようにと言い含める。

そして『六韜』の兵法書の在処を知らないかと聞かれた幸寿前は知らない、というが知る方法はあるという。

『六韜』を盗み見られる

鬼一が可愛がっている末っ子の姫がおり、彼女を介して情報を入手しようというのである。幸寿前は妹から返事をもらい、牛若丸は鬼一の前に姿を現さず、姫の部屋に隠れていた。

鬼一は嫌な相手を見ずに済んで機嫌は上々だった。実の娘としては心苦しいものがある心情を察し取った牛若丸は黙っているのは苦しいのだからいっそ法眼に知らせればいいではないか、と言う。

彼の服の袖にしがみついて悲しむ姫に対し、自分は『六韜』を望んでいるのだから見せてほしい、とたたみかける。

彼女は牛若丸が父の手で亡き者にされるのではと感じつつも、姉の幸寿前と共に父の秘蔵の宝蔵に入り、多数の巻物のなかにあった、唐櫃に入った『六韜』の兵法書一巻を持ち出した。

受け取った牛若丸は大いに喜び、昼は書き写し、夜は読解に没頭した。

七月上旬から十一月まで続けた結果、十六巻の一文字残らず覚えきった。『六韜』は一つの『韜』を一巻とカウントしても六巻であるので、ついでに十六巻のうちの他の兵法書もまとめて習得してしまった、という事だろう。

そのためか『義経記』には直接書名の見られない『三略』の書も彼が所有し牛若丸に見られた、という物語も後世に編まれることになった。

弟子と娘を失う

鬼一法眼は牛若丸が自分の屋敷内にいたことに気づいた。激怒した彼は娘に対しても殺意をおぼえたが我が子を手に掛けるなら五逆の大罪(父母の殺害が含まれる)に相当する、としてこれを躊躇った。別の一族の他人の始末なら、しかも源氏の者相手なら平家から勲功として評価されることもあるかと思ったが、自分の立場(「法師」は「説法する僧侶」も意味する)ではそれもできない。

というわけで、妹の婿でもある湛海という弟子を刺客として差し向けて始末させることにした。さらに牛若丸に使いをやり、面会の場を設けて、彼にへりくだった振る舞いをしつつ湛海が自身を殺そうとしているので五条天神(現在の京都市下京区の

五條天神社)に出向いて倒してほしい、と嘘をついて湛海と対戦するように誘導する。湛海は5、6人の屈強な者に鎧を着せて共に現場に向かうが返り討ちに遭い、湛海をはじめ3人の首が跳ねられ、牛若丸によって鬼一法眼の目の前に投げられることになる。

懇ろになった娘が嘆くとよくない、と牛若丸が情けをかけた事で彼女の父である鬼一法眼は殺されずに済んだ。義経はそのまま去って行き、独り残された娘は彼が帰ってこない寂しさと悲しみで衰弱し死んでしまう。

伝承

義経記での登場は牛若丸の僅かな間であったが、京都市左京区本町の鞍馬小学校の横に鬼一法眼の墓が存在する。正徳元年(1711年)刊『山州名跡誌』の「帰一法眼塚」の項目、および天明七年(1787年)刊『拾遺都名所図会』の「帰一法眼塚」の所では「梶取社の北半町ばかり東の方にあり。是則源牛若丸鞍馬に住居のとき、兵術の師なりといふ」とあり、鬼一法眼が牛若丸の師とする伝承が存在していたことが示されている。現在は「鬼一法眼之古跡」の名で知られる。

さらに鞍馬寺にも鬼一法眼を祀る「鬼一法眼社」が建立されている。少なくとも、伝説が成立した当時の人々は鬼一法眼が実在したと信じていたことが分かる。

中世の陰陽道において、『四十二箇条』『一巻書』『虎の巻』と呼ばれる兵法書が編まれ、その出自を語る部分において遣唐使吉備真備、鞍馬の仏僧祐海、源義経と共に鬼一法眼が言及されている。

先の通り、陰陽師であると共に兵法研究者でもあり、文武両道の出来人、剣豪だったという。

江戸中期の享保元年(1716年)刊『本朝武芸小伝』巻六「刀術」は鞍馬山の僧侶が鬼一法眼から刀術を学び、後に義経もその術を習ったという古伝を記している。さらに、鞍馬寺の僧侶8人が彼に伝授されたのが「京八流」であり、吉岡流(吉岡清十郎吉岡伝七郎の流派)も鬼一法眼の流派の末裔とする記述もあるが、後世に吉岡門下は断絶し文献が失われたため詳細は不明。

判官流伝書にはこの八人の僧侶の名前「祐頼・清尊・朝範・性尊・隆尊・光尊・性祐・了尊」が記されている。

江戸期の作品において

享保8年(1724)初演の浄瑠璃外題『義経勲功記』第三巻では鬼一のオリジンについての詳細が加えられている。伊予国(現在の愛媛県)の住人で、父は謙杖律師三代目吉岡憲清で、鬼一法眼の童名は鬼一丸という。保延年間(1135年から1141年)に都にのぼり、陰陽博士安倍泰長の門人となった。藤原頼長に召されて彼に仕えることになり、法師に任じられて「鬼一法師」となり、世間の人々から「鬼一法眼」と呼ばれるようになった。兵法を好む天性を持つ彼は、『六韜』と『三略』を納めた書庫のある鞍馬山に参籠した。

あるとき、断食し、多聞天(の像)の前に籠もっていると彼は霊夢を見た。虚空に浮かぶ尊い老僧が汝が願い望む事切なるものならその兵書を与えよう、と告げた。宿坊でこの話をしていると、寺の人の計らいで左大臣経由で頼長と話がつき、六韜三略の書を賜ることができた。蔵の深くにこの書を納めた彼は軍略の奥義を極め、富み栄えることになった。一条堀川の西に家を建て、その家を時の人は「鬼城城(おにしろじょう)」と号したという。

江戸時代の歌舞伎浄瑠璃に『鬼一法眼三略巻』(享保16年、1731年初演)があり、牛若丸の鬼一法眼への弟子入りから武蔵坊弁慶との出会いまでを描いた筋書きなっている。この作品には、鬼一法眼が牛若丸に対し、かつて鞍馬天狗として彼に軍法の奥義を教えたのは自分だと明かすシーンがある(歌舞伎演目案内)。作中では「幼きお目を眩ます鞍馬山の大天狗、僧正坊と名乗って相手になり、兵術を授け教へしを、真実の天狗と思給ひしが、是此仮面を被りし僧正坊、誠は鬼一法眼が仮に似せたる形なり」(三段目後半)と人間が仮面を被って天狗に変装していたというニュアンスである。その後、兵法はあくまで僧正坊から習った事にして自分の名は隠して欲しい、と鬼一が牛若丸に頼み、『義経記』等の記述と整合性をつける形になっている。

本作では鞍馬天狗と統合される形で友好的なキャラクターとなっている。上記の対峙ののち、鬼一法眼は牛若丸を娘婿として認め、その結果、三略巻の一つ「虎の巻」が牛若丸の手に渡ることになる。それは牛若丸が属する源氏の再興が鬼一法眼の願いでもあった事の表われでもあった。

「虎の巻」が自身の手を離れた後、鬼一は「鞍馬天狗」時代は源氏方だった自分が平家に鞍替えした事を悔いて自害する(文化デジタルライブラリー)。

自刃の際、源氏方への忠義を口にしながら、魂魄の「魂」の部分は冥土に行くが「魄」の部分は魔道に向かい「誠の天狗」となり、西の海や四海(四つの海、転じて世界のこと)においても陰ながら弓矢の力を添えて守ると誓って息絶える。

鬼一法眼=鞍馬天狗説は『鬼一法眼三略巻』より以前の資料や作品では確認されていない。

後世の作品において

明治時代の『絵本義経勲功記』二巻によると、伊予国吉岡(愛媛県北西部東予地方にあった吉岡村か)出身で、子供の時は単に「鬼一」といい、天性武芸を好み諸書に通じ、あらゆる事への求道を惜しまなかった。そうして式部大輔・藤原盛憲の目にとまり、彼のもとで勤め仕えることになる。出世して吉岡法眼憲海と名乗るようになり、宇治殿の博士となった。勅によって武客の師の役職を任ぜられ、この時に朝廷から『六韜』と『三略』を預けられたという。彼の権勢は天下に轟くほどになり、賄賂を渡そうとする者が市場のように門前に集うほどだった。

さらに平成時代では、藤木稟の『陰陽師鬼一法眼』(2000年)があり、幕府成立後を舞台に怨霊となった義経を鬼一法眼が迎え討つという大胆な筋書きが話題を呼んだ。

鬼一法眼を天狗そのものとして描写する作品もみられる。

関連タグ

陰陽師 剣豪

源義経 牛若丸 鞍馬山 鞍馬寺 鞍馬天狗 僧正坊

兵法 戦略 日本剣術 静形薙刀

犬神家の一族:鬼一法眼三略巻『菊畑』が作中で重要な役割を果たす。

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