概要
御嶽教は木曾御嶽信仰を掲げる宗教団体で、教団としての結成は1882年であるが、信仰としてはかなり古く702年に御嶽大神(クニノトコタチ・スクナヒコナ・大己貴命)を祀った御嶽神社(頂上奥社)が創建されたことに始まる。その後修験道の行場にもなっていった。この頃、木曾御嶽山への登山は百日精進潔斎の厳しい修行を行った「道者」とよばれるものに限り年1回の登拝が許されるというものだった。
民衆救済を求めた僧侶の覚明行者は民衆への登拝と救済を求めたものの従来の教団指揮をおこなっていた御嶽神社神官やそれを監督する尾張藩(事実上の統治は犬山城)は神域を汚すとして却下を続けた。その為覚明行者とその支持者は無断での登拝を実行した。下山後彼らは捕まったが民衆の多数の請願を受け遂に釈放され、これ以降水行のみで登拝する軽精進登山が認められるようになった。その後覚明行者は民衆の為の黒沢口の登拝道を開くことに生涯をささげた。
その後秩父の本山修験宗僧侶であった普寛行者が王滝口を開いたことでそれまで東海地方に集中していた御嶽講が関東でも結成されるようになった。
それまでの御嶽講に劇的な変化が起きたのは明治維新である。政府は国家神道体制樹立を目的に1868年に神仏判然令を発令し神仏分離を推進。これは御嶽神社の完全な神道化に他ならなかった。さらに追い打ちをかけるように1872年に修験禁止令が廃止され、それまで御嶽信仰を率いたもう一つの組織である本山修験宗は強制的に解体され、天台寺門宗への強制統合に追い込まれた。
神仏習合による独自の信仰である木曾御嶽信仰は存続の危機にさらされた。
御嶽講が出した結論は国家神道でもなく天台宗でもない第3の道、教派神道としての教団設立であった。1873年、東京浅草で代々講を率いていた下山応助氏が各地に散らばって別々に活動していた御嶽講を団結させて神道御嶽教会を樹立。その後1882年に御嶽教として単一の教団結成となったのである。
敗戦までは天理教に次ぐ組織力を誇った御嶽教だったが、戦後路線対立が発生し1946年に木曾御嶽本教が分裂、また同年には信教の自由に反していた修験禁止令も失効したことで本山修験宗が再建されたことで本山修験宗に復帰する講中も出てきた。
現在の信者数は、約47000人となっている。
教派神道となった時に神道色が強くなったが今なお般若心経を経典の一つとし、不動明王を祀り、六根清浄を唱えながら登拝するなど神仏習合の名残がみられる。
関連項目
パーフェクトリバティー教団 - 法令上は御嶽教の分派とされるが教義は全く異なる。