土御門家
つちみかどけ
室町時代の安倍家当主(晴明から数えて14代目)の有世のころ、安倍家は宗家をめぐって争っていた。
そのため、実質的に名乗ったと伝わる有宣や一族は応仁の乱やその他の戦乱を避けるために
若狭国(福井県)の武田氏(甲斐武田と同族)を頼り移住していた。
時は立って江戸時代、徳川家康の命令で山城国(京都府)に戻ることができ、安住の地となった。
ちなみに家康の征夷大将軍の儀は土御門家の人物が行っている。
(正確には土御門久脩が家康、秀忠、家光の3代に宣下の儀を行っている)
御所の周辺ではなく研究所も兼ねた大きな邸宅を今の梅大路にたてた。
家格は半家(堂上家の中で一番低い所)。明治以降は子爵家となり東京護国寺付近へ移住(現在も日易連が陰陽道先師先哲慰霊祭を護国寺で行っているのはその為)梅小路土御門殿跡地には円光寺が移転してきたものの、菩提寺である梅林寺や鎮守社であった稲住神社・鎌達稲荷神社はそのまま残された。
近代天文学導入に伴い、明治6年改暦と神宮暦専売制の施行とともに土御門家は陰陽寮の後身である星学局を解任され、家業として続いていた陰陽道も天社神道禁止令(敗戦時に事実上失効)により大打撃を受けた。家業を失った土御門家では、戦前期に「大日本陰陽会(現:日本易学連合会)総裁」などを当主が務めたものの、戦後以降天社神道に関する様々な宗教的な活動を土御門神道同門会(後の天社土御門神道本庁やそれを支える寺社)に移譲し手を引いた。
更には、最後の男性当主である土御門凞光・範忠兄弟の没後は、範忠の娘が当主を務めるも、近年動向そのものが不明になっているという。範忠没後23年となる2017年には、先祖代々の墓地のある梅林寺とも連絡がつかなくなっているらしく、先祖代々の墓が劣化などにより危機的状況を迎えている。このような中で、日本古来より1000年以上に渡って人文天文学・占星術分野における功績を讃え、天文学や陰陽道の研究者による墓参が行われているという。