概要
僧侶の姿で像や画が作られることが多い。
宇佐八幡宮の附属寺院の僧・神吽が編纂した『八幡宇佐宮御託宣集』によると、欽明天皇に対し「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と名乗った。
『八幡宇佐宮御託宣集』じたいは1313年に古い記録・伝承をかき集めて作成されたものであるが、八幡大菩薩信仰的には、「大菩薩」号の初出は欽明帝の時代(6世紀)、ということになるだろう。
記録上は8世紀の後半ごろから現れてくる。
本地
『八幡宇佐宮御託宣集』では八幡大菩薩の本地は「幽玄」であると語られ、具体的な尊格名はあげらていない。
阿弥陀如来を本地とする説が多いが、10世紀初頭から釈迦如来を本地とする信仰も現れた。
後者の説をとる八幡宮に大隅正八幡宮(鹿児島神宮)があり、日蓮も著作の一つ『諌暁八幡抄』で釈迦本地説を説く際にもその碑文を引用している。
八幡大菩薩は天照大神と並び彼から重んじられた日本の神であり、日蓮の制定した法華曼荼羅(題目曼荼羅)にもその名が記されている。
愛染明王を本地とする説もあり、江戸時代までの記録によると、鶴岡八幡宮、亀岡八幡宮、銀杏岡八幡神社、誕生八幡神社などでこの説がとられており、境内の本地堂には愛染明王像が安置されていたが、本地堂は廃仏毀釈の際に破壊され、仏像類も撤去された。
八幡宮の愛染明王像の一部は現存している。
具体的なテキストとして、元寇の時代に鶴岡八幡宮で別当(高位の宮司)をつとめた頼助という人物が作成した『八幡講秘式』に記載がある。
これは敵国降伏の祈祷に用いられた。愛染明王にも敵対者の降伏の御利益が語られており、八幡神の本地としてこの明王が設定された事と関係があると考えられる。