概要
年少の皇帝。王ならば幼王、君主・主君一般に広げると幼君となる。一般には年少ゆえに個人的能力も個人的人脈も不十分で、政治的実権をふるうことは難しい。このため政務は父母や臣下などの年長者に任せる形になりやすい。
また、幼帝もいずれ成人して政務に携わることになるのだが、これは政治を任せられていた人物から政治的実権を取り戻すことになる。しかし政権担当者も権力を手放すことは好まないため、対立が起こることも多い。
幼帝は君主制においてはあくまで例外的な形態だが、歴史上での登場頻度はそれなりに高い。臣下らが君主を傀儡にしたくて意図的に幼帝を擁立する場合もあるが、先帝が戦死したり、皇位継承の順位が決まっているために病弱な皇帝の登場を防げず、先帝が夭逝して幼い皇太子が残されたりして幼帝となる場合もある。
日本
天皇
記録の正確さに疑問が持たれている武烈天皇を除くと、まず文武天皇(数え15歳)が挙げられる。この時は持統上皇が後見となった。平安時代には清和天皇(数え9歳)が藤原良房の後見で即位した。良房は後に摂政となり、摂関政治への流れを作った(ただし良房の摂政就任は清和天皇の元服より後である)。
この後、院政との関係もあり、多くの幼帝が登場する。
一般に天皇が幼少の時には摂政、成人した後は関白となるため、そこから逆に考えて「摂政がいた天皇は幼帝」と判断されることが多い(摂政設置の理由は天皇が幼少であることに限定されないが)。
事態が変わるのは摂関家の血が薄い後三条天皇が即位してからである。天皇の死後、後を継いだ白河天皇は譲位後に院政を開始、それに倣うように鳥羽法皇、後白河法皇が幼帝の即位後に朝廷の実権を握り、後鳥羽上皇が承久の乱を起こして敗れるまで朝廷は鎌倉幕府と拮抗する勢力を保ちつづけた。
征夷大将軍
征夷大将軍を君主に近い存在と捉えるなら、鎌倉幕府及び室町幕府では、征夷大将軍に就任する年齢はかなり若いことが多い。特に鎌倉幕府では成長した4代将軍・九条頼経が名越光時らと4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼と対立し光時は所領没収のうえ追放、頼経も京の都に追い返される事件が起きてしまう。以後、得宗・北条氏は天皇家から幼年の親王を迎えるが成長すると京に追い返す策をくりかえした。
室町幕府では将軍の権力自体、山名氏や細川氏の専横を招くほど弱いが、3代将軍・足利義満(就任時点で数え12歳)4代将軍・足利義持のように、後に強力な実権を持った者もいたが、7代将軍・足利義勝は就任後わずか10歳で死去、8代将軍・足利義政は7歳で将軍継嗣に定められたが、実際に就任したのは13歳である。
江戸幕府では幕藩体制がしっかりしているため成人してからの就任が多いが、唯一徳川家継は4歳で7代将軍に就任、7歳で死去している。
フィクション
『銀河英雄伝説』
ゴールデンバウム朝皇帝・フリードリヒ4世の死後、国務尚書・リヒテンラーデ公クラウスと帝国軍宇宙艦隊司令長官・ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は皇帝の孫・エルウィン・ヨーゼフ2世を擁立、不満をもつ門閥貴族軍との内戦に発展した。
内戦の終結後、ラインハルトは帝国軍宇宙艦隊副司令長官・ジークフリード・キルヒアイス上級大将殺害にリヒテンラーデ公が関与しているとして公爵を処刑、宰相に就任し帝国の実権を握った。
とはいえ、この時点でラインハルトは帝国の一廷臣に過ぎないため、幼帝・エルウィン・ヨーゼフ2世の健康に配慮せざるをえない苦しい状況にあった。
この状況を打破するため、フェザーン自治領から「皇帝の誘拐」を門閥貴族の残党にやらせて自由惑星同盟に亡命させたうえで同盟侵攻にフェザーン回廊の通行を許可する申し出があり、この策略に乗ったラインハルトと総参謀長・パウル・フォン・オーベルシュタイン上級大将はこれを口実に同盟への侵攻(とフェザーン自治領の占領)を開始した。
同盟への侵攻直前、ラインハルトはエドウィン・ヨーゼフ2世の退位と生後間もない女帝・カザリン・ケートヘンの即位を発表、同盟に対して宣戦を布告した。
自由惑星同盟を降伏に追い込んだのち、ラインハルトは女帝・カザリン・ケートヘンから譲位されローエングラム朝銀河帝国を建国した。
それから3年、惑星ハイネセン周辺を除く銀河系全土を征服した皇帝・ラインハルトは25歳で崩御、ローエングラム朝銀河帝国2代皇帝に即位したのは生まれて2か月のアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムだった。