ポーランド分割
ぽーらんどぶんかつ
ポーランド分割(ポーランド語ではRozbiór Polski、ドイツ語ではTeilungen Polens、ロシア語ではРазделы Речи Посполитой)とは、ポーランドの領土がプロイセン(ドイツ)やロシアなどの周辺国に分割された出来事である。狭義のポーランド分割は、18世紀にポーランドの領土が3度にわたって周辺国に奪われ、最終的に全ての領土を失って滅亡した出来事を指す。しかし、19世紀と20世紀にも似たような出来事が起きたので、本記事ではそれらについても解説する。
ポーランドでは1572年にヤギェウォ朝が断絶した後、選挙王政となった。しかし、国内の貴族同士の対立で外国の干渉を招き、17世紀にはロシアやスウェーデンとの戦争で領土の一部を喪失した。18世紀に入るとポーランドは大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデンがアウグスト2世(在位1697-1706)を退位させて、スタニスワフ1世(1704-1709)を即位させた。その後、1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンがロシアに敗北すると、ロシアとオーストリアの支援でアウグスト2世(1709-1733)が復位した。アウグスト2世が崩御した後、ポーランド継承戦争が勃発。ロシアの後ろ盾を得たアウグスト3世(1734-1763)が、フランスなどの支援を受けていたスタニスワフ1世に勝利してポーランド王に即位したが、ロシアの内政干渉は増していった。
ロシアのエカチェリーナ2世は1764年、親露派の貴族スタニスワフをポーランド王(スタニスワフ2世(1764-1795))に据え、内政干渉を強めた。プロイセン王フリードリヒ2世はロシアのこのような動きを警戒して、オーストリアのヨーゼフ2世を誘って、ロシアにポーランド分割を提案。ポーランドが自立に向けた動きを見せていた事を警戒したロシアは、プロイセンとオーストリアの提案に応じ、この3国は1772年に、それぞれ国境に隣接する地域を奪った。
第一次ポーランド分割後も、ポーランド側の自立に向けた動きは収まらなかった。スタニスワフ2世は1791年にヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」を制定し、ポーランドは世界初の立憲君主制国家になった。この改革に反対した貴族達はロシアと結託して、翌年、ロシア軍を自国に引き入れた。しかし、勝算が無いと判断したスタニスワフ2世は貴族と妥協してロシアに降伏したため、戦争は終結した。この直後、プロイセンがポーランドの領土の一部を要求したため、1793年にプロイセンとロシアは、再度ポーランドの一部を分割した。
1794年、アメリカ独立戦争から帰還したタデウシュ・コシチュシュコがクラクフで蜂起し、一時はロシア軍を破ったが、ロシア・プロイセン連合軍により鎮圧された。この戦後処理により、1795年にロシア・プロイセン・オーストリアの3国はポーランドの残った領土を分割。かくしてポーランドは消滅した。
1799年から起きたナポレオン戦争に刺激されたポーランドの人々は、1806年にプロイセンから自立し、フランスに協力した。その結果、1807年にフランスとプロイセンが締結したティルジット条約に基づき、ワルシャワ公国が成立。ポーランドは一時的に独立を回復した。しかし、1812年にナポレオンがロシア遠征(祖国戦争)に失敗すると、公国はプロイセンとロシアに占領され、1815年のウィーン会議で両国に分割された。かくしてポーランドは再び消滅した。
第一次世界大戦(1914-1918)の終結直前、ドイツとロシアで革命が発生。これによってチャンスを得たユゼフ・ピウスツキはポーランド共和国(第二共和国)を成立させた。しかし、1939年8月23日にナチス・ドイツとソ連が不可侵条約を締結してから9日後の9月1日に、ドイツがポーランドへの侵攻を開始し、同17日にはソ連もポーランドへ侵攻した。同26日にはドイツ・ソビエト境界友好条約が締結され、ポーランドの領土はドイツとソ連に分割された。かくしてポーランドは三度消滅した。
第二次世界大戦では、戦災や民族浄化などでポーランド人の20%が死亡した。戦後ポーランドは、ソ連の衛星国「ポーランド人民共和国」として復活し、独立を完全に回復したのは1989年であった。