初期
現在のモスクワ周辺の東ヨーロッパがロシアの母体となり、1世紀にスラヴ民族の東スラヴ系がロシア人の始まりとなり、6世紀から7世紀に侵出したアジア系遊牧民も混ざった。9世紀後半にルス族の長であるリューリクがノヴゴロド国を興したと伝えられている。9世紀末にオレーグによってキエフ公国が建ち、10世紀末のウラジミール1世がギリシャ正教を国教として導入した。ノヴゴロドは西洋諸国との交易で、キエフは黒海・地中海と北方を結ぶ交通の要衝として発展した。
1236年2月にモンゴル帝国が侵略し、モンゴル構成国の1つであるキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下になった。14世紀前半にモンゴルの衰退に乗じてイヴァン1世がモスクワ大公国を建国し、後にモンゴル支配から完全脱却した。15世紀にイヴァン3世はロシアを統一して国内制度を全国規模で整備し、ビザンツ帝国の滅亡を受けてその後継者を意味する称号のツァーリ=皇帝を宣言した。16世紀半ばに雷帝のイヴァン4世は国内の近代化整備・皇帝集権化・シベリアへの領土拡大など、ロシアの礎を築いた。
1584年3月にイヴァン4世が崩御した後は皇帝・貴族とで対立して国内は荒れ、隣国のポーランド・リトアニア共和国との連邦構想を巡って、ポーランドも巻き込んだ戦いとなった。ポーランド軍は退却して貴族たちによってミハイル・ロマノフが擁立され、1613年2月にロマノフ王朝が成立した。ピョートル大帝によって西ヨーロッパの技術や絶対主義を急速に導入し、当時バルト海の覇権を握っていたスウェーデンとの北方戦争を破り、海への出口として新首都のペテルブルグを建設した。
ロシア帝国・ソビエト連邦成立後
1762年7月に女帝のエカチェリーナ2世が啓蒙専制君主となってポーランド分割に関わり、1812年12月に遠征しに来たナポレオン軍を追い払った。その後ロシアは東ヨーロッパ・中東・極東などへ南下政策を進め、ロシアの領土は極東にまで達してウラジオストクを建設した。イギリスと対立が増したが(グレート・ゲーム)、その一方で経済発展の中で農奴制・それに伴う国内の経済格差・ヨーロッパでもこの時代ほぼ唯一の議会無しの専制政治はロシア社会の不安材料となっていった。しかも国会の開設でさえ、最後のニコライ2世の治世であった。
1904年2月の日露戦争で敗北して国内の政情不安が悪化し、第一次世界大戦では連合国側に与して参戦した。国民の不満は爆発してレーニンによってロシア革命が発生し、ロマノフ朝のロシア帝国は終焉となり、1922年12月に世界初の社会主義共和国であるソビエト連邦が成立した。事態を危険視した各国は出兵し、日本もシベリアに出兵した。1924年1月にレーニンが死去した後はスターリンが実権を掌握し、重工業化を進めて世界恐慌を乗り切ったが、独裁政治によって多くの人々が粛清・追放となった。ドイツと密約を締結してヨーロッパ分割を取り決めてポーランドを分割し、1939年11月にフィンランドを侵略したが、1941年6月に独ソ戦が開始されてスターリングラードの攻防をはじめとする多大な被害を出した。その後ソ連は一転してアメリカ合衆国・イギリスと手を結ぶ事になって連合国に属し、第二次世界大戦の勝利につながる。日本とは日ソ中立条約を締結していたが、1945年2月のヤルタ会談でスターリンはアメリカのルーズベルト大統領と密約を交わし、条約を破棄・参戦して北方領土を占領した。さらに大戦中に占領・進軍した東ヨーロッパ諸国(ポーランド・バルト3国・東ドイツなど)に共産党政権を戦後に樹立していった。
1945年9月の終戦後はアメリカを筆頭とする民主主義陣営の西側に対し、社会主義・共産主義陣営の東側の盟主として世界を二分する超大国として対立し、冷戦の時代となった。1949年10月1日に成立した中国とは友好関係にあったが、1953年3月にスターリンが死去した後のフルシチョフ時代の1960年4月には、思想方針の不一致から中ソ対立が表面化した。
1970年代のブレジネフ時代には経済停滞が進んで社会が硬直化し、この反省からゴルバチョフ時代の1987年1月にペレストロイカが実施されて自由化が進められた。しかしゴルバチョフが上からの統制を緩めた事で体制のほころびが隠せなくなり、これに反発する保守派がクーデターを起こす(ソ連8月クーデター)。同クーデターを収拾させたボリス・エリツィンが引導を渡す形で1991年12月にソ連は崩壊し、ロシア連邦をはじめとした各構成共和国は独立する事となった。
ロシア連邦成立後
ボリス・エリツィン大統領率いるロシアは、急激な資本主義化によって経済崩壊となった。医療崩壊・アルコール依存症の蔓延によって男性の平均寿命は極端に短くなり、公務員の賃金未払いが常態化した。1998年8月にアジア通貨危機の余波を受けてデフォルトになってしまい、国民にソ連時代への郷愁とアメリカへの敵対感情を抱かせる要因となった。
2000年5月に就任したプーチン大統領の主導で強いロシアの復活を目指し、財政を始めとした様々な改革に取り組んで持ち直してきている。旧ソビエト連邦構成国と独立国家共同体を結成して影響力の保持に努めている他、2008年8月にグルジアの南オセチア独立紛争などに介入して緩衝地帯の建設に熱心である。国内の地域独立運動を抑えることに関しては強権的な姿勢で臨んでおり、強力な愛国心教育を実施して近代的で強力な軍隊の創設に乗り出している。2014年3月にウクライナの政治的混乱に乗じてクリミアに侵攻・併合して国際的非難を浴びた。
その影響でアメリカ・ヨーロッパ諸国がロシアへの経済制裁を発動したものの、当のロシア側はアメリカドル・ユーロを決済しない方向へと進み、特に中国・北朝鮮・BRICS諸国・イランなどで対アメリカドルの決済を除外し、独立国家共同体ではアメリカドルに加えてユーロの決済を行わない方針を決めた。その後の報道では中国・イランでも人民元・イランリアル・ロシアルーブルでの相互決済に移行し、ユーロ排除も鮮明になって来た。
2015年9月にシリアのアサド政権を支持してISILの拠点を爆撃したが、同年11月27日にトルコのエルドアン大統領がロシア連邦軍機を襲撃する事件が発生し、トルコとの関係は著しく悪化した。しかし後にトルコがこの事件のお蔭でISILを支援している事が明らかになった。ただし2016年2月に原油問題において、ロシアの石油会談とシェールガスの倒産も相まってルーブルと原油が徐々に上がった為、ロシア経済は持ち直した。その後は同年7月にトルコのクーデター問題でロシアとトルコの関係は改善した。
2016年4月にパナマ文書問題が発生し、プーチン大統領の友人がその名前を問われた時、「アメリカの陰謀」だと述べて欧米諸国の報道機関からは反感を持ったものの、その後の文書の内容でアメリカ企業・有名人の租税回避地(タックス・ヘイブン)については殆ど掲載されていない事が明らかになった。
2021年12月にアメリカの諜報機関によってウクライナ侵攻計画が公表された。アメリカはこれに対して「もし実際にそうなったら強力な経済制裁を発動する。」と表明し、2022年2月に西側諸国が退避勧告を発令するなど緊張が高まる一方だったが、その後プーチン大統領がウクライナへの軍事侵攻を表明し、攻撃が開始される事となる。