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概説編集

現在イギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)と呼ばれている地域は、ヨーロッパ大陸の北西海上に浮かぶグレートブリテン島および周辺の島々からなる。ヨーロッパ地域の中でも外延部に位置するこの島々は、一方で海洋性の穏やかな気候と全体的に起伏の少ない地形を持ち、有史以来ケルト系、ゲルマン系、フランス人など様々な人々の来訪が繰り返されてきた。


古代編集

ブリテン周辺地域では錫を産したため、その産地として地中海には知られていたという。

紀元前9世紀から紀元前5世紀頃にケルト人がブリテン島に広まり、ケルト系部族国家が成立した。しかし、対岸のガリア(フランス)がカエサルのガリア遠征でローマの支配下に置かれて以降、ローマの介入が徐々に増し、ネロ帝の時代以降、ローマ帝国がブリテン南部(現在のイングランド主要部)を支配下に置いた。ブリタニア属州と呼ばれたこの地にもローマ式の都市が建設され、ヨークやロンドン、チェスターといった中世までの主要都市はこの時代に成立したという。

ローマ帝国の衰退後、5世紀頃にブリテン島南部は、侵入したゲルマン人の一派に征服された。デンマークの南部から来たこれらの人々はアングル人、サクソン人、ジュート人ともよばれ、このうちアングル人の名が「イングランド」という現在の呼び名の由来になる。一方のスコットランド・アイルランド・ウェールズはケルト系部族の地域として残った。このゲルマン侵入やローマ衰退期の戦役の伝説が、後のアーサー王伝説の元となったとみられている。


中世編集

イングランドは7王国と呼ばれる国家群に分かれて集合離散を繰り返したが、886年11月にアルフレッド大王のウェセックス王国が統一した。1016年10月にクヌート大王のデンマークによって「北海帝国」と呼ばれる領土に組み込まれた。

その後一時ウェセックス系の王朝が復古するが、1066年12月にフランスのノルマンディー公ギヨーム(後のウィリアム1世)が海峡を渡り上陸しノルマン朝が開かれる。この「ノルマン・コンクエスト」と呼ばれる事件以降、イングランド王がフランス王に対しては対等な地位にも拘わらず、フランスにおいてはフランス王に従う大貴族である、というややこしい事態が発生した。1154年10月にフランスのアンジュー伯家のヘンリー1世が王として迎えられてプランタジネット朝が成立し、1283年6月にエドワード1世はウェールズを征服した。この間、イングランド王はイングランドの諸貴族の上に君臨する一方、マグナ・カルタに代表されるような、身分制議会や慣習法(コモン・ロー)が一定の重みをもつ状況が徐々に生まれていく。一方、アイルランドにも介入し、イングランド王は「アイルランド卿」の称号を得るものの、諸部族・小王国に分立したアイルランドへの統治は一部地域を除きほぼ進まない状態が長く続いた。


一方のスコットランドは、エディンバラを中心とした地域の統合が進み、イングランドとは別個の国家として成立する。しかし、王位争いは深刻で、また北部ハイランドの部族の統御や、イングランド以上に厳しい気候と土地での自立という課題を抱え続けた。この王位争いに題材を取ったのが、有名な悲劇「マクベス」である。


1337年11月にフランスの王位継承問題にエドワード3世が介入して、イギリスとフランスの長きに渡る対立を深刻化させる一因となった英仏百年戦争が勃発した。最終的にイングランドは敗北して、フランス国内での領土をほぼ失ったことで大陸での立場を失う。加えて1455年5月に王位継承争いでランカスター家とヨーク家による薔薇戦争が勃発し、1485年7月にヘンリー7世が即位した事でテューダー朝が成立した。


近世編集

薔薇戦争によって大貴族の勢力が逓減した中で始まったチューダー朝は比較的強権的な王朝となった。1517年10月に大陸でルター宗教改革が始まり、ヘンリー8世の離婚問題に対してローマ教皇クレメンス5世が離婚を無効にした事で、これに反発したヘンリー8世はローマ教皇庁と決別してイングランド国教会が成立した。この頃の1603年4月にイングランドはアイルランドを占領した。

イングランドでは「血の女王」メアリー1世などカトリックへの揺り戻しもみられたものの、1558年11月に即位した「処女王」エリザベス1世は、海外への植民地獲得の切っ掛けを作り始める。ハプスブルク家スペインと対立し、1588年にアルマダ海戦でスペイン無敵艦隊を撃破し、1600年12月に東インド会社が成立した。

一方でスコットランドは何度もイングランドとの間で侵略と独立を繰り返したが、エリザベス1世が王位継承者を誕生させずに崩御した為、1603年3月にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、イングランドとスコットランドは同君連合となってステュアート朝が成立した。しかし次のチャールズ1世は、国教会システムを無理に自治的な長老派のプロテスタントが多いスコットランドに持ち込もうとして対立と混乱が起こり、この際の課税騒動と議会無視をきっかけに「イギリス内戦」(清教徒革命)とも呼ばれる内乱が勃発した。クロムウェルによって1649年1月30日に国王は処刑されて共和制が敷かれるが、この体制は何回かの内ゲバを経て、クロムウェルを「護国卿」という名の独裁者とする体制へと変容する。1658年9月3日にクロムウェルが亡くなると、王政復古が起こってチャールズ2世が即位した。しかし後継者問題から名誉革命が発生し、ジェームズ2世は大陸に追い出された。

近代編集

1707年5月にイングランドとスコットランドはグレートブリテン王国として合同し、ハノーヴァー朝が成立して議院内閣制が開かれた。世界各地に植民地を拡大させたが、アメリカ大陸独立戦争が始まり、1783年9月にパリ条約が締結されて合衆国が正式に独立した。1800年8月に合同法が成立し、1801年1月にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立した。

1789年7月にフランス革命が発生し、対フランス封じ込め態勢をとってナポレオン戦争で度々戦い、トラファルガー海戦やワーテルローの戦いでナポレオンを負かした。1814年9月に開催されたウィーン会議に参加し、植民地の確定を決定してウィーン体制が開始された。18世紀後期の英国では綿工業における技術革新を皮切りに、機械と蒸気機関を用いる大規模な工場制度が普及。19世紀にかけて人類初の工業化である産業革命が進むが、初期資本主義のもと酷使された労働者階級の生活は悲惨なものであった。

1837年6月にヴィクトリア女王が即位し、このヴィクトリア朝時代の19世紀から政治運動チャーティズムが盛り上がり、議会政治・自由選挙・民主主義が発達し、自由貿易も広まった。イギリスは世界中にインドをはじめとする数多くの植民地を所有し、阿片戦争清朝から香港を租借。帝国主義が吹き荒れる国際情勢の中で工業力も背景に大英帝国として最盛期を迎え、世界の約4分の1を支配下に置く超大国となっていた。同時に南下政策を進めるロマノフ朝のロシア帝国と対立し、グレート・ゲームを繰り広げた。

幕末日本にも影響をもたらし、親フランス派の江戸幕府に対してイギリスは倒幕派を支援した。永らくどこの国とも同盟を結ばない「栄光ある孤立」を続けていたが、ロシア対策のために方針を改め、1902年1月に日英同盟を成立させて日露戦争にも関わった。またアメリカ・ドイツの台頭が目立ち始め、国際的地位が揺らぎ始めた。

20世紀編集

1914年6月のサラエボ事件を機に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは協商連合側として参戦した。同盟側のオスマン帝国ロレンス大佐を使って謀略戦を仕掛け、アラブ人の独立運動を煽ったが、同時にユダヤ資本から資金調達のためにイスラエル建国を約束する矛盾した取引をし、さらに中東をフランスと分割統治を目論み、パレスチナ問題の遠因を作った。最終的に戦勝国となり、パリ講和会議で主導的立場となり、ベルサイユ体制を敷いた。

1919年1月にアイルランドで独立戦争が始まり、1921年12月に北アイルランド以外のアイルランド自治が認められて英愛条約が締結され、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国が成立した。

1929年10月に世界恐慌が発生すると経済不況を受けるが、ブロック経済対策でこれを対処した。1931年12月にウェストミンスター憲章が制定され、カナダオーストラリアニュージーランド南アフリカなどによる「イギリス連邦」が成立した。しかし植民地は収益よりも投資額が多い「お荷物」となり、7つの海を股にかける大海軍の維持に喘ぐようになる。

ヨーロッパ大陸ではアドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツが勢力を拡大させ、イギリスのチェンバレン首相は宥和政策で対処しようとしたが、ヒトラーに足下を見られ、1939年9月にドイツはポーランドに侵攻。イギリスはフランスとドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。しかし、フランスは北半分をドイツに占領されて親独政権に変わり、ロンドンにシャルル・ド・ゴールによる亡命政府自由フランスが設置された。第二次世界大戦中の1940年5月10日、対独宥和政策に反対したウィンストン・チャーチルが英国首相に就任。チャーチルはフランクリン・ルーズベルト大統領のアメリカ合衆国からレンドリース(武器貸与)などの支援を得て対独戦に精力的に臨んだが、1941年6月の独ソ戦開始までドイツと戦うのはイギリス一国のみであった(バトル・オブ・ブリテン)。1941年12月に大日本帝国太平洋戦争を開始し、アジア太平洋方面のイギリス植民地は大東亜共栄圏に組み込まれてしまった。


アメリカ合衆国は日本との開戦により、日本と同盟しているドイツとも開戦。開戦前の1941年8月にイギリスと交わしていた大西洋憲章に基づき、対ファシズム・領土不獲得・民族解放の考えに基づいた戦後処理の方向が定まることになった。1945年2月にヤルタ会談でアメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦は戦後処理を決め、その年に枢軸国は敗北した。


戦勝国となったイギリスは安保理常任理事国となったが、新領土・賠償金も無く、さらに日本が植民地解放を推したために世界各地のイギリスの植民地は独立機運が高まって国力低下から維持も困難となったため、植民地のほとんどを手放した。帝国の栄光は幕を閉じて世界の覇権の座をアメリカに譲った。

ソ連を筆頭とする共産主義陣営との「冷戦」が始まり、チャーチルはアメリカでの演説で「鉄のカーテン」を発表した。1949年4月にアメリカと北大西洋条約機構を発足させ、1952年10月に核兵器を保有した。クレメント・アトリー首相は「ゆりかごから墓場まで」を掲げた福祉国家を進め、石炭・鉄道・通信を国有化した。


1960年代ごろから製鉄炭鉱自動車工業など英国製造業の没落が進み、1970年代のオイルショックを機に悪性のインフレ(スタグフレーション)に陥り「英国病」と呼ばれるほど経済は悪化した。北大西洋の漁業資源をめぐりアイスランドと衝突したタラ戦争にも敗れ、国民はすっかり自信喪失の状態に陥った。1979年5月にマーガレット・サッチャーが首相となり、「小さな政府」による英国経済の活性化を掲げ、民営化・福祉国家の解体・インフレ抑制のための金利引き上げといった新自由主義政策を導入した。しかしこれにより失業者が激増したため、新自由主義改革の柱であったマネタリズムを断念しリフレーション政策に方針転換を図る。サッチャーは1982年のフォークランド紛争の勝利で得た人気をてこに、中央集権化などの改革を推し進めた。この時期には北海油田の開発が進み、イギリスは産油国となった。またロンドンを中心に金融業が成長したが、製造業ほどの雇用吸収力はなく、失業率はサッチャー政権末期になってようやく下がり始めたものの、在任中は英国病の克服は実現しなかった。サッチャーは外交面でも強硬な姿勢で臨んだが、中華人民共和国に対しては鄧小平に押されて1997年の香港返還を受け入れさせられた。冷戦後のイギリスは欧州共同体(EC)に加盟する事となってヨーロッパ連合に加盟したが、イギリスの通貨のポンドは残った。また北アイルランドではIRAによる独立運動が続いてテロが相次いだが、1998年4月に和平合意がなされた。


1997年5月に保守党から労働党に政権が移り、トニー・ブレアが首相に就任して、文化政策「クール・ブリタニア」を目指した。さらにスコットランドに議会を創設して自治権を与えることで、独立論をガス抜きしようとした。

21世紀編集

2001年9月にアメリカ同時多発テロが発生し、イギリスは対テロ戦争の有志連合に加わった。2002年1月にEUで共通通貨「ユーロ」が始まったが、イギリスは導入せずにポンドを残し、移動の自由を保障するシェンゲン協定にも署名しなかった。

2014年9月にスコットランドで独立の是非を問う投票が実施されたが、反対派の勝利によって回避された。2016年6月に移民問題などからEU離脱論争の「ブレグジットが巻き起こり、こちらも投票に至る大事となった。その結果、なんと離脱賛成票が上回ってしまい、EU離脱がほぼ確定した。残留支持だったキャメロン首相は7月13日に辞任してこの影響は世界に広がり、日本でもドル・ユーロ・ポンドよりも安全という理由で円が買われ、急速な円高や日経平均株価を1000円以上下げる暴落を引き起こした。

しかし政府・国民も方針・計画性に混乱が広がり、構成国でも分離独立論とEU加盟論が再燃した。連合王国解体の危機だけでなく、国際社会での政治的・経済的・軍事的なパワーバランスすら崩壊する事態が現実味を帯びてきており、混迷の行方は未だ続く様相にある。

後任の首相にはキャメロン政権の内務大臣だったテリーザ・メイが任命された。メイはサッチャー以来2人目の女性首相であったが、メイも混乱をまとめきれずに辞任し、後任のボリス・ジョンソンが庶民院の解散総選挙で勝利し、2020年2月にブレグジットに踏み切った。

2022年9月、70年に渡り女王に在位していたエリザベス2世が崩御。チャールズ3世が国王に即位した。

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