生没年 1895(明治28)年~1960(昭和35)年
最終階級 少将
生涯
愛知県常滑市出身。私立明倫中学校(現愛知県立明和高校)卒業後、海軍兵学校に45期生として入学。同期には沖縄特攻作戦時の第二水雷戦隊司令官・古村啓蔵、戦艦大和艦長・有賀幸作がいる。
少佐任官後に海軍大学校に29期生として入学。卒業後は駆逐艦夕月駆逐艦長、海軍大学校教官、第八駆逐隊司令を経て、太平洋戦争開戦を軽巡大井艦長(大佐)として迎えた。
その後軽巡川内と戦艦榛名艦長を経て、1944(昭和19)年1月戦艦大和艦長となる。
艦長としてその力量を見せたのは、10月のレイテ沖海戦(直前に少将へ昇進)、特に前哨戦となるシブヤン海海戦であった。この時米第3艦隊の空母群から放たれた航空隊は、最終的に同型艦の武蔵に魚雷20本、爆弾17発を浴びせて沈めるほどの猛攻を見せたものの、大和には爆弾3発しか命中させていない。森下自身はその間、メイン画像のような防弾チョッキを着用せず咥え煙草で余裕綽々の態度で指揮を執ったという。
海戦後は第二艦隊参謀長となり伊藤整一司令長官を補佐。大和沈没時に救助され、終戦時は呉海兵団長。
戦後は故郷で隠遁生活を送った。