概要
海軍兵学校第五十一期 海軍大学校第三十四期。海上護衛総司令部参謀を務め、戦後に「海上護衛戦」を執筆した。
帝国海軍の中では数少ないシーレーンと海上護衛の重要性の理解者でもある。
海軍軍人として
明治三十五年十二月十一日、現在の山形県鶴岡市に生まれる。
(旧制)庄内中学校を経て、大正九年八月二十六日に海軍兵学校に入学、255人中9位の成績で大正十二年七月十四日に卒業した。
戦艦扶桑、戦艦日向の分隊長勤務を経て昭和七年十一月十一日海軍大学校第三十四期甲種学生。
昭和十一年十一月十一日に海軍大学校を30人中3位の成績で卒業した。
その後は艦隊参謀や海軍省軍務局調査課に勤務している。
昭和十六年十二月八日の太平洋戦争開戦時には海軍省軍務局第一課先任局員の職にあった。
つまり、典型的な海軍のエリート軍人であり、最初から海上護衛を志していたわけではない。
それらを軽視していた…というよりも船団護衛?なにそれ、知らない状態の帝国海軍の一員として、氏もその潮流からは逃れられなかっただろう。
この時までは。
海上護衛総司令部での勤務
船団護衛対策の怠慢の結果、輸送船の被害が激増し遂に海軍の尻にも火が点いた。
昭和十八年十一月十一日、海上護衛総司令部が設立され、参謀となる。徴用船の被害現状把握に対策立案、護衛計画やその為の燃料確保等に奔走した結果、否応なしに海上護衛の重要性を理解せざるを得なかった。
しかし、幾ら氏をはじめとする護衛当局が東奔西走しようとも、それまでのツケは余りにも大きく、輸送船舶の被害は増加の一途を辿った。
海防艦をはじめとする護衛艦艇を建造しようにも、その為の燃料を調達しようにも鋼材の原料である鉄鉱石や燃料である重油が途中で船ごと沈められるので計画通りにまともに実行できない現状に頭を抱えることになる。
昭和二十年四月になると南方航路は米軍の通商破壊の結果あらかた放棄され、主要港も機雷の投下で軒並み使用不能となり、朝鮮半島との細々とした海上輸送で辛うじて命脈を繋いでいた。
それでも、この航路の保護の為には護衛部隊に一ヶ月あたり7000トンの重油が必要だったのである。
水上部隊の栄光が何だ、馬鹿野郎!
四月四日、7000トンの重油を工面する事に成功し海上護衛総司令部の面々は胸を撫で下ろした。
そこへ同じ建物に勤務する通信班員の大佐がやって来て一言。「今、軍令部に行った時に聞いたんだが、戦艦大和で沖縄への突入作戦をやるそうだよ。」
…やがて1本の電話がかかってくる。
相手は海軍省の大佐で、大井は受話器を手に取った。
- 大佐「この間、護衛総隊に重油を7000トンやると言ったが、あれは駄目になったよ。大和が沖縄に突入する為にどうしても4000トン必要なんだそうだ。だから3000トンしか渡せない。しかしえらいことになったな。大和は特攻だってさ。片道分の燃料だけしか持っていかないそうだ。」
愕然とした大井は、すぐに連合艦隊司令部へと電話をかけ、護衛担任の大佐が電話に出た。
- 大佐「大和の出撃の事ですか?今、丁度貴方の部隊へ命令を伝えようとしているところだったんです。護衛の計画は…云々」
- 大井:「しかしね、沖縄へ行って46センチ砲を撃ちまくると力んだって途中で撃沈されるに決まっているじゃないですか。」
- 大佐「その可能性も大いにあるんですがね、狙いは他にもあるらしいんですよ。航空部隊にばかり特攻をさせて、水上部隊はただ指を咥えて見ているだけではいけないという気持ちがあるみたいです。そこでこのような訓示が電文で出される事になっているので短いですから全部読んでみましょう。」
聞きながら大井は段々とムカついてきた。この期に及んで外聞や体裁を気にしている海軍上層部に我慢がならなかったのである。そして、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
- 大佐「ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず…」
- 大井:「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ!水上部隊の栄光が何だ!馬鹿野郎!!」
一喝するとそのまま受話器を叩き付けた。
彼自身も、相手の大佐に非がないことも、当たり散らかしてもどうにもならない事も分かっている。ただどうしても辛抱できなかったのだ。
戦後の後半生
戦後はGHQの嘱託として連合国側からの戦犯容疑者の尋問等を行う。そして、昭和二十八年に「海上護衛戦」を執筆。
NHKの報道特集「ドキュメント太平洋戦争 第一集『大日本帝国のアキレス腱』」に出演し当時の様相を語った。