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概要

任務は名前通り海上護衛。海上護衛隊を指揮して船団護衛を行なう事を目的として設立された。

設立まで編集

太平洋戦争開戦まで、帝国海軍は船団護衛をどのように行おうと考えていたか。

……なんにも考えていませんでした。

彼等は、仮想敵国である米艦隊と太平洋上で艦隊決戦を行う事を想定し、その為の戦力の整備や戦術の研究には熱心でもシーレーン防衛の事はほぼ眼中になかったのである。

開戦が切迫して海軍が慌てて引っ張り出した船舶被害の資料は第一次世界大戦のものだった。

それでも、1942年前半までの輸送船の被害は許容範囲内(一月当たり8万トン前後の予測に対して実際は6.5万トン)に収まった。

米軍の魚雷には欠陥品が多く、命中しても不発のものが多かった事、その魚雷自体も劈頭のフィリピン空襲によって大量に喪失し潜水艦の活動に支障が出た事が原因だった。

だが、そんな虫の良い話がいつまでも続くはずがない。

戦況の悪化と海上護衛総司令部の設立編集

米軍は欠陥の多かった魚雷の改善を進め、信管の改良や新型のMark18魚雷の配備によって不発問題は完全に解決した。

そして、満足な護衛が付いていない輸送船が次々と餌食になった。

1942年10,11月の2ヶ月間の建造船舶は18隻、5万トンに対して喪失船舶は61隻、33万トンに達した。

日本側も海防艦の建造を急ぐなどやっと重い腰を上げたが、占守型に次ぐ択捉型海防艦は竣工が1943年になり1942年中には全く増強されなかった。

穴埋めとして、掃海艇駆潜艇に旧式駆逐艦特設艦船が護衛に充てられたが本来の任務でない船団護衛には不向きだった。

1943年度の建造船舶433隻、112万トンに対して戦没船舶は670隻、252万トンに及び、建造する倍のペースで輸送船が沈められたのである。

ようやく事態の深刻さに戦慄した海軍は1943年11月1日、海上護衛総司令部を設立、開戦後2年を経とうとしている段階で始めて船団護衛を行う部隊の統括部署が設置された。

どうしてこんなになるまで放っておいたんだ

活動内容編集

海上護衛総司令部は海上護衛隊を指揮し、船団護衛を行う事によって船舶被害の軽減を目指した。

東海(哨戒機)を装備する第901航空隊をはじめとする哨戒航空隊も指揮下に置き、海空連携で対潜掃討を実施した。

1943年後半〜1944年にかけては、ようやく鵜来型海防艦をはじめとする護衛艦艇も竣工し始め、大規模な船団には大鷹冲鷹といった商船改造空母が護衛に加わる事もあったが、逆に米潜水艦に撃沈されている。

それでも、日々悪化する戦況の中で終戦まで船団護衛に奔走したのだった。


関連タグ編集

徴用船 商船改造空母 海防艦 東海(哨戒機) 大井篤 特設艦船 大日本帝国海軍 太平洋戦争

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