概要
河内型戦艦の2番艦。旧日本海軍としては最後に建造された弩級戦艦で、日本海軍の艦船としては「摂津艦」に続いて2代目。
艦体
摂津は、河内と同じく基本計画番号「A-30」が付された。摂津は河内の「伊号戦艦」に対する「呂号戦艦」として計画され、1909年1月18日起工、1911年3月30日に進水、1912年7月1日に竣工した。30センチ砲連装6基12門と砲力は強力に見える。しかし、実際は主砲を亀甲型に配置したため、右、又は左舷に砲を撃つとき反対舷の砲が使用できず、そのうえ前後の砲2基が50口径、中央舷側の4基が45口径と射撃指揮に問題がでるものであった。
標的艦として
1923年10月1日のワシントン海軍軍縮条約により、戦艦陸奥を保有する代わりに、摂津は退役させられることとなった。主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃し、標的艦に改装された。なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。
標的艦となった当初の本艦は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった。1923年、ドイツが軍艦を無線操縦する技術を開発したと伝えられると、日本海軍もそれを研究し、1928年に無人操縦装置の試作機完成。実験の上摂津に搭載することとなったが、この時は本格採用されず、すぐに予備艦となり呉軍港に長らく係留された。
2度目の改造
1939年から1940年にかけて重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように防御がさらに強化された。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの5センチ演習砲による砲撃などに耐えられるよう、軍縮条約によって取り外していた側装甲を復活し、甲板の防御をさらに強化した。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを換装し第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。
松田千秋艦長
1941年、後の戦艦日向・大和艦長、そして第四航空戦隊司令官となる松田千秋大佐が艦長に着任した。
ただ訓練爆撃を受けるだけでは面白くないと、摂津艦長時代に松田は「爆撃回避法」を研究し、「爆撃は全て回避できる」と豪語した。
演習でそれを実践したところ、第一航空戦隊の(訓練)雷爆撃を鈍重な摂津で全弾回避するという離れ業をやってのけた。一航戦が連合艦隊にクレームを入れ、松田は連合艦隊司令部に呼び出されて口頭で叱られたという。
後に松田は少将に昇進して、第四航空戦隊司令官に就任、航空戦艦日向・伊勢を率い、絶望的な戦局となった大戦末期にあって、米軍の熾烈な航空攻撃から同戦隊をほぼ無傷で生還させている。
最期
開戦後も特に日本周辺から離れることはなく呉を母港として過ごしたが、1945年7月24日アメリカ軍機による呉軍港空襲を受け大破着底、そのまま終戦を迎えた。
上述の伊勢・日向も呉軍港空襲時には既に回避運動を行うだけの燃料も無く、大破着底した状態で共に終戦を迎えている。