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地名編集

イタリアヴェネト州トレヴィーゾ県にある人口約2万9000人の基礎自治体

第一次世界大戦において戦場となった。→ヴィットリオ・ヴェネトの戦い

連敗続きのなかでの、この戦いの勝利を記念してイタリア各地の街路や広場に「ヴィットリオ・ヴェネト」の名がつけられている。


軍艦編集

1、1940年に就役したイタリア海軍戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦一番艦。編集

(名称は上記の戦いに由来する。)

戦艦ヴィットリオ・ヴェネト


主要データ編集

ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦リットリオインペロを参照。


経歴編集

1934年計画戦艦としてトリエステのカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ造船所にて1934年10月28日起工。


1937年7月25日、進水。


1940年4月28日に竣工。第九戦隊に配属される。


8月31日~9月2日の英国のハット作戦及びMB3作戦に対して、戦艦ジュリオ・チェザーレに将旗を掲げたイタリア第1艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ中将の指揮のもと戦艦三隻、巡洋艦十隻、駆逐艦三十四隻と共に出撃するも会敵出来ず。


9月29日~10月1日、英国のMB5作戦に対して再びチェザーレを旗艦とするカンピオーニ提督に率いられ戦艦三隻、巡洋艦十一隻、駆逐艦二十三隻と共に出撃するも会敵せず。


11月11日~12日、リットリオを含む戦艦六隻、巡洋艦八隻、駆逐艦十三隻と共にタラントに停泊中に英空母イラストリアスを発艦したソードフィッシュ雷撃機の襲撃を受けるも魚雷が命中前に爆発した為に小破で済む。

この空襲でリットリオ、コンテ・ディ・カブールカイオ・ドゥイリオが大破着底。

この後、艦隊はナポリに後退した。


17日、マルタ島への航空機輸送作戦であるホワイト作戦に対してカンピオーニ提督の旗艦である戦艦ジュリオ・チェザーレに率いられ、巡洋艦二隻、駆逐艦十六隻と共にナポリを出撃。それを知った英H部隊が予定より遠距離で飛行機を発艦させて引き上げた為にイタリア艦隊も引き揚げる。

発艦した英軍機の過半が失われた為に部分的には英国の作戦阻止に成功。


27日、輸送船団攻撃の為にチェザーレのカンピオーニ提督の指揮のもと、巡洋艦六隻、駆逐艦十四隻と共にナポリを出撃していたが、合流して戦艦一隻、巡洋戦艦一隻、空母一隻、巡洋艦八隻、駆逐艦十四隻までになったH部隊を中心とする英護衛艦隊を前に撤退するも、その折に小競り合いが生じ、ヴェネトも短時間ではあるが敵艦隊と砲火を交えた。(スパルティヴェント沖海戦


1941年1月8日~9日、ナポリにてウェリントン爆撃機の爆撃を受ける。翌日、至近弾で損傷したチェザーレを援護してラ・スぺツィアに移動。


2月6日、戦艦アンドレア・ドリア、チェーザレ、駆逐艦八隻とともにラ・スぺツィアを出撃しH部隊攻撃に向うも会敵せず。


3月26日、ドイツの要請に応じる形でギリシャにおける船団攻撃の為に艦隊司令長官アンジェロ・イアキーノ中将の旗艦としてナポリを出撃。合流した艦を含めた巡洋艦八隻、駆逐艦十三隻の艦隊となる。

28日、ヴェネトは第三戦隊の重巡洋艦と交戦中の英巡洋艦戦隊と交戦。しかし約束のドイツ空軍の援護を得れないばかりか英空母フォーミダブルフェアリーアルバコア雷撃機の襲撃を受けた為に撤退。

更に艦隊はギリシャ、クレタ島からのブレニム爆撃機の水平爆撃を受け、それに注意をとられる逆ミッドウェー状態となって低空からのフォーミダブルのアルバコア雷撃機の攻撃を許し、ヴェネトは魚雷を命中させた機は撃墜したもののその一本の魚雷で4000tの浸水が生じ、一時航行不能状態に陥るもダメージコントロールの宜しきを得て速力を20ノットまでに回復し、再度、アルバコアの襲撃を受けるも戦艦三隻、空母一隻、巡洋艦四隻、駆逐艦十一隻からなる英地中海艦隊から逃れる事に成功する。

しかし、その折の空襲で航行不能になった重巡洋艦ポーラ、その曳航の為に派遣した重巡洋艦ザラフィーメを英艦隊との夜戦で艦隊は失う事となる。(マタパン岬沖海戦

旗艦をリットリオに継承。


8月、修理完了。


22日~25日、リットリオと共に出撃するも会敵せず。


9月27日、英国のマルタ補給の為のハルバート作戦に対して艦隊司令長官アンジェロ・イアキーノ中将に率いられリットリオ、巡洋艦五隻、駆逐艦十四隻と共にナポリを出撃するも英船団護衛に戦艦・空母を含む強力な護衛艦隊(戦艦三隻、空母一隻、巡洋艦五隻、駆逐艦十九隻)がいる事を知り撤退する。


12月14日、北アフリカ向けの四隻の輸送船からなるM41船団の間接護衛としてリットリオ、駆逐艦四隻、水雷艇二隻と共に作戦中、英潜水艦アージの攻撃による魚雷一本の被雷で2000t以上浸水しタラントに引き返す。


1942年3月、修理完了。レーダーを装備する最初のイタリア戦艦となる。


6月14日、巡洋艦八隻、駆逐艦二十二隻、戦艦に偽装した対空砲のみ装備の旧式戦艦センチュリオンに護衛された十一隻からなるマルタ島向けのヴィガラス船団攻撃の為にイアキーノ提督に率いられリットリオ、巡洋艦四隻、駆逐艦十二隻と共にタラントを出撃するが15日に夜が来る前に船団を攻撃する事は困難とされ撤退する。

この折にリットリオが損傷。


11月12日、艦隊と共にタラントからナポリに移動中に英潜水艦アンブラの攻撃を受けるも魚雷は命中せず。


12月4日、ナポリにてアメリカ軍の空襲を受ける。その後、ラ・スぺツィアに移動。


1943年6月5日、ラ・スぺツィアにてアメリカ軍のB-17の爆撃を受け大破。修理の為にジェノヴァに移動。この折にローマも損傷。


9月9日、イタリア降伏後、姉妹艦であるローマに将旗を掲げた艦隊司令長官カルロ・ベルガミーニ大将に率いられ連合国に引き渡される為にラ・スぺツィアを出港しリットリオ、巡洋艦六隻、駆逐艦八隻と共にマルタ島へと回航中にドイツ空軍のDo217によるフリッツXの攻撃を受け、二発の命中弾でローマが撃沈され、リットリオが一発命中して損傷する中、本艦は無傷で済む。 その後、エジプトのグレートビター湖に回航され戦争終結まで留まる。


戦争終結後はイギリスへの賠償艦となり、1948年2月1日に除籍され、1951年までにラ・スぺツィアにて解体された。


評価編集

リットリオと共に第二次世界大戦で一番活躍したイタリア戦艦と言えるが、参加した海戦に有名なマタパン岬沖海戦があるので知名度は彼女の方が高いと思われる。

またタラントでは相手の魚雷の不具合で助かり、マタパン岬沖海戦では九死に一生を得たり、姉妹艦と違いフリッツXの命中を得なかったりと姉妹の中では幸運に恵まれていたと思われる。


擬人化イラスト編集

维托里奥·维内托-Vittorio Veneto

その他編集

戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを擬人化した戦艦少女の登場キャラ。

ヴィットリオ・ヴェネト(戦艦少女)维内托を参照。

愛称はVV。こちらの記事(外部リンク)かこちらの記事(外部リンク)も参照。

センシティブな作品

buongiorno signor ammiraglio。I国海軍所属、ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦ヴェネト。幸運にも提督に会えました。軍務につきましてはどうかご教授をお願いします。

図鑑No112
耐久75
火力81~101
装甲78~98
回避28~48
対空32~62
速力31
索敵14~39
17

2、1969年に就役したイタリア海軍のヘリコプター巡洋艦。編集

(名称は上記の戦いに由来。)

主要データ編集

基準排水量:7500t。

満載排水量:9500t。

全長:179m。

全幅:19.4m。

武装:76㎜単装砲八基。

   40㎜連装機銃三基。

   Mk.10ミサイル連装発射機一基。

   テセオ艦対艦ミサイル四基。

   ILAS33連装魚雷発射管二基。

ヘリコプター:六~九機。

乗組員:550名。

速力:32ノット。

   


経歴編集

1959/60年計画のヘリコプター・ミサイル巡洋艦としてカステラマーレ・ディ・スタビア工廠にて1965年6月10日に起工。


1967年2月5日、進水。


1969年7月12日に竣工。海軍旗艦となる。


1980~82年に近代改装されテリアミサイルをスタンダードミサイルに換装。


1985年9月30日、海軍旗艦を空母ジュゼッぺ・ガリバルディに譲る。


1997年4月22日、アルバニア動乱に対して多国籍軍旗艦として活動中にヴロラ沖で座礁。


2003年11月、退役。

 

イタリア海軍最後の巡洋艦となった。

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ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦 ゔぃっとりおゔぇねときゅうせんかん

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