リットリオとは
- 古代ローマの要人警護の為の役職であったリクトルをイタリア語に表記転換したもの。そこから公的権力の象徴、結束の旗手などの意味に変化した。彼等が所持していたファスケスと呼ばれる斧の一種もまた権力と結束を表すものとされており、ファシスト党のシンボルとして三つのファスケスの抽象化されたマークが使用されていた。
- イタリア海軍のヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の二番艦。またはリットリオ級戦艦のネームシップとも言われる。
- 2.をモデルとした『艦隊これくしょん』に登場する艦娘についてはリットリオ(艦隊これくしょん)を参照のこと。
リットリオ(ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦)
性能諸元
基準排水量:41300t
満載排水量:45960t
全長:237.8m
全幅:32.9m
武装:38㎝三連装砲塔三基
15㎝三連装砲塔四基
9㎝単装高角砲十二基
37㎜連装機関砲十基
20㎜単装機銃三十基
装甲:水線部350㎜
甲板162~220㎜
主砲塔(最大装甲)350㎜
副砲塔(最大装甲)280㎜
司令塔260㎜
速力:31ノット
乗員:1920名
艦歴
1934年計画戦艦としてジェノヴァのアンサルド造船所で1934年10月28日に起工。
1937年8月22日、進水。
1940年5月26日、竣工。カルロ・ベルガミーニ少将の指揮する第九戦隊に配属され旗艦となる。
8月31日~9月2日の英国のハット作戦及びMB3作戦に対して、イタリア艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ中将の指揮のもと戦艦五隻、巡洋艦十隻、駆逐艦三十四隻と共に出撃するも会敵出来ず。
9月29日~10月1日、英国のMB5作戦に対して再びカンピオーニ提督に率いられ戦艦五隻、巡洋艦十一隻、駆逐艦二十三隻と共に出撃するもまたもや会敵出来ず。
11月11日~12日、ギリシャ侵攻支援の為に姉妹艦ヴィットリオ・ヴェネト、戦艦コンテ・ディ・カブール、ジュリオ・チェザーレ、アンドレア・ドリア、カイオ・ドゥイリオというイタリア海軍の全戦艦と巡洋艦八隻、駆逐艦十三隻の艦艇と共に停泊していたタラント港で英空母イラストリアスを発艦した僅か二十機あまりのフェアリーソードフィッシュ雷撃機の二波にわたる夜間空襲を受け魚雷三発を被雷し着底。更にキールの下の水底で不発魚雷が見つかり12月11日までドック入り出来ず。
この為、戦隊旗艦を姉妹艦ヴィットリオ・ヴェネトに継承する。
この空襲でコンテ・ディ・カブール、カイオ・ドゥイリオも大破着底。
1941年4月14日、修理完了。 損傷したヴィットリオ・ヴェネトから艦隊司令長官アンジェロ・イアキーノの旗艦を継承する。
8月22日~25日に出撃するも会敵出来ず。
9月27日、英国のマルタ補給の為のハルバート作戦に対して艦隊司令長官イアキーノ提督の旗艦としてヴィットリオ・ヴェネト、巡洋艦五隻、駆逐艦十四隻と共にナポリを出撃するも英船団護衛に戦艦・空母を含む強力な護衛艦隊(戦艦三隻、空母一隻、巡洋艦五隻、駆逐艦十九隻)がいる事を知り撤退する。
12月13日タラントを出港した北アフリカ向けの四隻の輸送船からなるM41船団の間接護衛としてヴィットリオ・ヴェネト、駆逐艦四隻、水雷艇二隻と共に出撃。翌日、ヴィットリオ・ヴェネトは英潜水艦アージの雷撃を受け損傷。作戦も中止となり引き返す。
12月16日、前回引き返した四隻の輸送船からなるM42船団の護衛の為にイアキーノ提督の旗艦として第三戦隊司令官アンジェロ・パロナ少将率いる戦艦アンドレア・ドリア、ジュリオ・チェザーレ、重巡洋艦二隻、駆逐艦十一隻からなる間接護衛部隊に属して出撃。レーダーが無く夜戦が苦手なイタリア艦隊の常として日没前の短時間ではあったが17日に巡洋艦四隻、駆逐艦十二隻の英艦隊と交戦した後に夜戦を避けて撤退。(第一次シルテ湾海戦)
1942年1月3日~6日、M43船団の間接護衛として出撃。
3月22日、英輸送船団攻撃の為にイアキーノ提督の旗艦としてタラントを出撃。巡洋艦三隻、駆逐艦八隻を従えて巡洋艦五隻、駆逐艦十七隻からなる船団護衛の英艦隊と交戦し英駆逐艦ハヴォック、キングストンに命中弾を与えるも、海戦自体は悪天候で決定打に欠けたまま前回同様に夜戦を避けて撤退。(第二次シルテ湾海戦)
6月14日、巡洋艦八隻、駆逐艦二十二隻、戦艦に偽装した対空砲のみ装備の旧式戦艦センチュリオンに護衛された十一隻からなるマルタ島向けのヴィガラス船団攻撃の為にイアキーノ提督の旗艦としてヴィットリオ・ヴェネト、巡洋艦四隻、駆逐艦十二隻と共にタラントを出撃。
度重なる独伊空軍の空襲とドイツ魚雷艇の攻撃はヴィガラス船団を退却させ、その阻止に成功したもののリットリオもB24リベレーター爆撃機の爆撃及びウェリントン爆撃機の魚雷一本の被雷で損傷。
旗艦をヴィットリオ・ヴェネトに継承。
8月27日、修理完了。
1943年4月18日、19日のラ・スぺツィアへのB24の空襲を受け損傷。
7月30日、ベニート・ムッソリーニが失脚した為に彼のファシスト党のシンボルである名称は好ましくないとされイタリアに改名。
9月9日、イタリア降伏後、姉妹艦であるローマに将旗を掲げた艦隊司令長官ベルガミーニ中将に率いられ連合国に引き渡される為にラ・スぺツィアを出港しヴィットリオ・ヴェネト、巡洋艦六隻、駆逐艦九隻と共にマルタ島へと回航中にドイツ空軍のDo217の攻撃を受け、フリッツXを前部砲塔右舷に被弾する。この折にローマは撃沈された。
その後、エジプトのグレートビター湖に回航され戦争終結まで留まる。
戦争終結後は賠償艦としてアメリカのものとなり、1948年6月1日に除籍され、1950年までにラ・スぺツィアにて解体された。
評価
●タラント空襲で大破着底したり、姉妹艦のローマがフリッツXに撃沈されたせいで防御力に問題のある戦艦と評される事も多く、バルジを取り付けて速力が低下する事を嫌って採用したプリエーゼ式水中防御も複雑な構造の割に技術不足で効果は少なく失敗であったとされる。
しかし音速に近いスピードで落下してくるフリッツXを被弾して大損害を出さない戦艦は稀有であり、それで防御力に問題があるとは一概には言えず、ダメージコントロールに失敗して爆沈を遂げたローマと違いリットリオ(イタリア)も被弾したが沈むには至らなかった事からも乗組員の質の問題の方が強いように思われる。(軽巡洋艦サヴァンナがフリッツXが命中しても沈まなかった事も引き合いに出されるが、それは装甲が薄すぎてサマール沖海戦の米護衛空母と同じく貫通して爆発したとも考えられる)
またタラント空襲での沈没も奇襲を受けて真珠湾攻撃でのアメリカ戦艦のように水密扉が開かれていた為に同様に比較的軽度の損傷で大破着底したとも、水深の浅い港内では衝撃が逃げにくく一定以上の衝撃には弱いプリエーゼ式水中防御が効果が無かったとも、また英軍が使用した磁気魚雷が更に効果を増した可能性もある。
●大戦中の列強の戦艦の中では、英仏の三万五千トンクラス戦艦以上の重量を持ったうえに地中海と言う限定された戦場故に航続距離を短くすませた余裕で、攻防走のバランスをイタリアの技術的には高い次元で両立させた本艦は地中海での英海軍の脅威であった。
●上層部の艦隊保全主義で消極的な活用しかされず戦果こそ目立ったものはないものの、本艦は船団攻撃などで度々出撃して連合軍に脅威を与えており、第二次世界大戦における列強海軍ではイギリス・ドイツの戦艦程では無いにせよ、日本海軍の戦艦よりは総じて活躍したと言える。