→ Wikipedia:ジュリオ・チェザーレ (戦艦)を参照
概要
コンテ・ディ・カブール級戦艦2番艦。
艦名は古代ローマの政治家(ガイウス・)ユリウス・カエサルのイタリア語読み。ただし"Cesare"のイタリア語読みとしては「チェザーレ」より「チェーザレ」の方が実際の発音としては近く、実際他の用法では「チェーザレ」の方が一般的となっている。この戦艦を指す用法に限って「チェザーレ」で定着してしまっている。(もしくは某ラノベキャラとか。)
1910年6月24日起工、1911年10月15日進水、1914年5月14日就役。
1915年5月24日、第一次世界大戦勃発。第一戦隊(司令官:ルイージ・アメデーオ・ジュゼッペ・マリーア・フェルディナンド・フランチェスコ・ディ・サヴォイア=アオスタ少将)に配備され、主にアドリア海南部で活動したが、オーストリア・ハンガリー帝国海軍は消極的で交戦の機会はなかった。
1923年8月31日、イタリア陸軍のエンリコ・テッリーニ大将殺害事件をきっかけにコルフ島事件が勃発。「ジュリオ・チェザーレ」はイタリア艦隊に加わり、イタリア海兵隊のケルキラ島(イタリアではコルフ島)上陸を援護し、ギリシャ軍に艦砲射撃を加えた。
1926年、予備役となる。
1928年、練習艦となる。
1932年12月24日、フランス海軍の新戦艦「ダンケルク」が起工。イタリア海軍はその性能に脅威を感じる。
1933年10月、ティレニア海造船所ジェノヴァ工場に移され、原型をとどめない程の大改装を受け、高速戦艦に生まれ変わった。新造した方が安く済んだともいわれる。
1937年10月1日再就役。
1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦。この時チェザーレは姉妹艦であるコンテ・ディ・カブールと共に第5戦艦戦隊(司令官ブルート・ブリヴォネージ少将)を構成すると共に第1艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ中将の旗艦であった。
7月9日、カンピオーニ提督の旗艦としてカラブリア沖海戦に参加。兵力が優勢である事もありイタリア艦隊は互角の戦闘を繰り広げるも、イギリス海軍地中海艦隊の旗艦である戦艦「ウォースパイト」の主砲弾が距離24,000mからチェザーレの機関部に命中(移動目標に対する最長の命中記録の一つ)。8基のボイラーのうち4基が損傷し、速力も18ノットに低下。これを機にイタリア艦隊は撤退した。
11月11日、イギリス海軍のタラント空襲を受けるも無傷。
11月27日、カンピオーニ提督の旗艦としてスパルティヴェント岬沖海戦に参加するも、イギリスH部隊が増援と既に合流して兵力が優勢である事が判明した為に撤退。
海軍改革で第1、第2艦隊が統合され、12月8日に艦隊司令長官にカンピオーネ提督の後任としてアンジェロ・イアキーノ中将が就任したのを機に旗艦をヴィットリオ・ヴェネトに継承した。
1941年1月8日、ナポリ港をRAFのウェリントン爆撃機が夜間空襲。爆弾3発が命中し中破。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」に護衛され、ラ・スペティア港に避難。
燃料欠乏により戦艦では新鋭のヴィットリオ・ヴェネト級に燃料は優先される事となり、1942年12月にはチェザーレは予備役となってポーラ港で練習艦兼宿泊艦となる。
1943年9月8日、イタリアが連合国軍に降伏。タラント軍港へ回航される。
9月9日、タラント港を空襲したドイツ空軍機を5機撃墜。連合国軍に投降するためマルタ島へ向かう。
9月12日、マルタ島に到着。翌年6月17日まで抑留された後、イタリア海軍に復帰。
1949年2月6日、賠償艦としてソ連海軍へ引き渡され、「ノヴォロシースク」と改名。
1955年10月29日、セヴァストポリ港停泊中に触雷し、ダメージ・コントロールに失敗して沈没。事件は様々な憶測を呼んだが、大戦中にドイツ軍が敷設した沈底機雷の可能性が高い。
なお、この沈没事故をきっかけに、当時の海軍総司令ニコライ・クズネツォフ元帥が責を問われ、解任・失脚に追い込まれている。
1957年に浮揚、解体された。