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戦歴においては武勲艦と呼ぶ程には活躍出来なかった艦も含めて、孤立無援の状況で奮戦した艦船の艦名とそのエピソードを記述。


該当艦編集

日本海軍編集

またね、辰年

1942年6月5日、第二航空戦隊司令官山口多聞少将の旗艦として参加したミッドウェー海戦にて、僚艦である空母蒼龍、第一航空戦隊の空母赤城加賀が敵急降下爆撃機の奇襲により被弾炎上するなか、敵雷撃機の攻撃を回避する為に他の空母より離れていた本艦はその攻撃を免れ、一挙に敵空母三隻に対して飛龍一艦と著しく不利となった状況を挽回すべく奮戦する事となった。

現地時間11時に出撃した反撃の第一矢である小林道雄大尉率いる急降下爆撃機十八機、戦闘機六機は米第十七任務部隊を発見し、空母ヨークタウンに三発の命中弾を与え一時的に航行不能とさせた。だが護衛の零戦ニ機が往路で敵編隊を攻撃して脱落した事もあり、攻撃隊は小林隊長機を含む爆撃機十三機、戦闘機三機が未帰還となる甚大な損害を受け、雷撃機よりは運動性能もある急降下爆撃機ですらこの損失という事実は第二航空戦隊司令部に大きなショックを与えた。

小林隊より二時間半ばかり後に友永丈市大尉指揮する雷撃機十機、戦闘機六機からなる攻撃隊が出撃した。雷撃機のうち一機は赤城のものであり、ミッドウェー島空襲の折の被害で飛龍所属の使用可能な雷撃機の戦力は既に半減した状態であった。

小林隊と違い接触機を失って手探りの状態だった同攻撃隊は幸運にも複数の米艦隊を発見し、無傷に思えた手近の空母を攻撃目標として二発の魚雷を命中させたが、被害も甚大で友永隊長機を含む雷撃機五機、戦闘機三機が未帰還となった。

米機動部隊の空母が三隻からなる事を知った山口提督はこれで敵空母二隻を撃破し、一対一の状況にまで漕ぎ着けたと判断したが、事実は友永隊が攻撃した空母は小林隊より受けた被害の復旧なったヨークタウンであり、状況は厳しいままであった。

攻撃隊の被害の甚大さから使用可能な飛龍の攻撃機は十機にも満たない状態であり、山口提督は間髪を入れずに白昼での反復攻撃を行う事を諦め、薄暮攻撃で残る一隻(と思われた)の敵空母撃破を意図した。

だが、次の攻撃隊を出撃させる事無く現地時間17時30分頃に飛龍は敵急降下爆撃機の攻撃を受ける。敵攻撃隊は戦闘機の護衛も無く、飛龍には上空直衛機も付いていたが疲労の為かその阻止に失敗し四発を被弾して飛龍は炎上。必死の消火活動も効を奏さず、6日の現地時間3時15分に総員退去の命令が出され、乗組員が救助された後に駆逐艦巻雲により現地時間5時10分に魚雷処分された。沈没は数時間後で山口提督と加来艦長も退艦を拒み飛龍と運命を共にした。

艦長:加来止男大佐。(戦死)


軽空母龍驤改(カラー)

太平洋戦争緒戦時の南方侵攻作戦に置いて海上からの航空支援を事実上一隻で担当。構造上の欠陥で防御に欠陥がありながらしばしば敵艦・敵船へ搭載砲による接近戦を行った。1942年の第二次ソロモン海戦において囮として敵機動部隊をひきつけ撃沈。


日本海軍 戦艦「山城」完成時(1917年)



綾波


日本海軍 妙高型重巡洋艦 羽黒

1945年5月16日、第五戦隊司令官橋本信太郎中将の旗艦として、駆逐艦神風とアンダマン諸島への輸送の任務を中止してペナンに向う途中、マンリー・パワー大佐率いる英第26駆逐隊の駆逐艦五隻に捕捉される。

スクリューシャフトの損傷で全速を出せず、その振動で照準は狂いがちであり、魚雷を全て下ろしてまで甲板一杯に積載した輸送物資は主砲塔の旋回を妨げ、また第二砲塔は修理していないままであり、羽黒は苦戦を強いられた。

橋本中将は神風に離脱を命じ、残された羽黒は奮闘の末に魚雷二発以上の命中により撃沈された。

艦長:杉浦 嘉十少将。(戦死)


「衣笠」重巡洋艦

1942年10月11日、駆逐艦吹雪初雪の護衛の元、五藤存知少将の第六戦隊(重巡洋艦三隻)の一艦としてガダルカナル島のヘンダーソン飛行場砲撃に向う途中、ノーマン・スコット少将率いる重巡洋艦二隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦五隻からなる艦隊と遭遇。

この海域での敵の報告は無く、第一次ソロモン海戦の夜戦で痛打を受けた米艦隊が夜戦を行う事は無い等の判断もあり五藤提督が敵艦隊を味方と誤認した為に日本艦隊は奇襲を受け、先頭の青葉が大破し五藤提督は戦死。それを庇う為に突出した二番艦古鷹は軽巡洋艦ボイシを大破させるが自らも被弾して大破炎上する中、殿である三番艦であったことも幸いして衣笠は態勢を立て直し効果的な砲撃を実施し、自らも四発被弾するも重巡洋艦ソルトレークシティに二発、ボイシにも再び命中弾を与え、更には戦況を各部に打電する余裕を見せるなどサボ島沖海戦で劣勢だった日本艦隊の中で一艦だけ気を吐いた。

11月14日、空襲により戦没。

艦長:沢正雄大佐。


陽炎型駆逐艦画像は陽炎型駆逐艦

1944年2月17日、練習巡洋艦香取、特設巡洋艦赤城丸、駆逐艦舞風とで編成された4205船団で内地へ向けトラック島を出港後に同島への米機動部隊による大規模な空襲があり船団も赤城丸が撃沈され、残りの艦艇もレイモンド・スプルーアンス大将の直卒する戦艦ニュージャージー(旗艦)、アイオワ、重巡洋艦二隻、駆逐艦四隻の攻撃を受け、野分のみが辛うじて逃れた以外は全滅した。

レイテ沖海戦には第二艦隊に第四駆逐隊の一艦として参加。

その折のサマール沖海戦にて航行不能となった重巡洋艦筑摩を乗組員を救助した後に処分し、本隊に追いつこうとしている矢先、日付が変わって間もない10月26日の夜に第二艦隊追撃の為にウィリアム・ハルゼー大将が第34任務部隊から抽出したオスカー・バッジャ少将率いる戦艦アイオワ(旗艦)ニュージャージー(ハルゼー提督旗艦)、軽巡洋艦三隻、駆逐艦八隻からなる艦隊と遭遇した。

アイオワ、ニュージャージー両戦艦とは二度目の遭遇であったが、今度は幸運には恵まれず撃沈された。救出した筑摩乗組員も含め生存者はいなかった。

艦長:守屋節司中佐。(戦死)


駆逐艦 竹

1944年12月2日、レイテ島オルモック湾にて駆逐艦と輸送船三隻の揚陸作業を護衛中、ジョン・ザーム大佐率いる米第120駆逐群の駆逐艦三隻の攻撃を受ける。

撃沈された桑の信号により敵襲を知った竹は交戦を開始。不発ながら機関室に被弾するなどの損傷を受けるも魚雷にて駆逐艦クーパーを撃沈し敵を撃退。帝国海軍最後の勝利を飾った。

艦長:宇那木勁少佐。


松

硫黄島への戦力の増強の為に第二護衛船団司令部司令官高橋一松少将の旗艦として、駆逐艦一隻、海防艦二隻、駆逐艇一隻、輸送船五隻からなる4804船団を編成する。

任務を果たして帰投中の1944年8月4日にマーク・ミッチャー中将の第58任務部隊の空襲を受け船団は壊滅。更に任務部隊より抽出されたローレンス・デュボース少将率いる巡洋艦四隻、駆逐艦十二隻からなる艦隊の攻撃を受け、松の高橋少将は第四海防艦と残された唯一の輸送船である利根川丸に離脱を命じて、自らは殿としてデュボース艦隊と交戦し撃沈された。

艦長:吉永源少佐(戦死)


駆逐艦「松」「橘」

昭和20年7月14日、無数の米軍艦載機が北海道各地に来襲(北海道空襲)。函館港においては空母「エセックス」艦載機が来襲し、青函連絡船や貨物船が次々と沈められる中、同港に停泊していた「橘」が単艦で奮戦。1時間の激しい対空戦闘で6機を撃墜するも、機銃掃射で多数の死者を出し、ついに機関に被弾、身動きがとれなくなったところに敵機の攻撃が集中しついに沈没した。乗組員280名中、戦死者140名。


「橘」を撃沈した米艦載機は、30kmほど離れた福島沖の駆逐艦「柳」に向かった。こちらも至近弾や機銃掃射で多数の死傷者を出し、艦尾を喪失するなど大破したが沈没は辛うじて免れている。

艦長:林利房少佐(橘)、大熊安之助少佐(柳)


駆逐艦 初月

第61駆逐隊司令天野重隆大佐の旗艦としてエンガノ岬沖海戦に参加。

その折の1944年10月25日、軽巡洋艦五十鈴、駆逐艦若月と撃沈された空母瑞鶴瑞鳳千代田の生存者の救出活動中にローレンス・デュボース少将率いる重巡洋艦二隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦十二隻からなる艦隊の攻撃を受ける。

当初は撤退をしていた初月は殿を引き受ける為にか途中反転して単艦で敵艦隊に突撃を敢行し、奮戦の後に撃沈された。

この行動で五十鈴、若月、桑は撤退することができた。

艦長:橋本金松中佐。(戦死)


日本海軍 駆逐艦 天津風


ミッドウェー海戦で処分されたはずの空母飛龍が未だ漂流中の報告を受けただ一隻で状況確認のため飛龍捜索に派遣される。そのさなか、アメリカ軍の空母機、さらにミッドウェー基地からの大型爆撃機の空襲を受け孤軍奮闘状態に陥ったが、奇跡的に生還することができた。


神風


丁型海防艦 1944画像は丁型海防艦

1945年7月28日、由良湾に停泊中、延べ八十機以上の米艦載機の攻撃を受け、由良海岸基地、由良町防衛の為に奮戦するも衆寡敵せず撃沈された。

艦長:楠見直俊中佐。(戦死)


釜石港停泊中に、釜石艦砲射撃に遭遇している。当時釜石港にいたのは海防艦221号と第48号駆潜艇の2隻だったが、第48号駆潜艇は米艦隊に随伴していた艦載機にたちまち撃沈され、戦艦3隻(サウスダコタインディアナマサチューセッツ)、重巡2隻(シカゴ、クインシー)を海防艦が単艦で迎え撃つという事態となった。221号は湾を出た時点で敵艦隊と遭遇、40cm砲弾が雨あられと降り注ぐ状態で、交戦は無謀と悟り、半島の裏側に退避し、空母艦載機との対空戦闘を行った。山を背に優位な位置に陣取った221号は敵機の機銃掃射が集中し穴だらけとなったが沈む事なく生き残り、単艦で艦載機十機弱を撃墜する戦果をあげた。これが釜石艦砲射撃における、日本側の唯一の効果的な反撃とされている。


太平洋戦争勃発時に海軍に徴用された漁船の一隻。1942年4月18日にドーリットル攻撃隊を載せて東京へ向かう米機動艦隊を発見。肉薄し詳しい偵察を行い打電の後、砲撃しながら接近してきた軽巡洋艦ナッシュヴィルへ機銃を乱射しながら体当たりを試みるがナッシュヴィルの砲撃と空母艦載機の攻撃により撃沈。特設監視艇はもとが漁船であるため有効な対艦・対空武装を持たず、そのほとんどが敵発見を打電した直後、なすすべもなく沈められていった「孤軍奮闘艇」であったが、本船はその中でも最も有名なものである。


幕府海軍編集

蟠竜丸の奮戦

英国王室用遊覧船であったが英国より徳川幕府に寄贈された折に軍艦として改装される。

箱館戦争では榎本武揚率いる旧幕府艦隊の主力として宮古湾海戦箱館湾海戦などで活躍するも1869年5月11日での箱館湾海戦では、既に千代田形は捕獲され、回天も座礁して浮き砲台となった状態で、本艦は榎本軍で唯一つ残った軍艦であった。その為に新政府軍の甲鉄春日陽春延年丁卯朝陽の六隻と単艦で交戦する事となるが、朝陽を轟沈させる奮戦を見せる。その後、弾薬が尽きた為に座礁した。

艦長:松岡磐吉


回天(明治二年 蝦夷到着以降)【オリジナル艦娘】回天丸【艦娘前史】


イギリス海軍編集

ここから先は行かせないっ!HMSジャービス・ベイ(流血表現あり)画像は擬人化。

1940年11月5日、HX-84船団を護衛中にドイツ装甲艦アドミラル・シェーアの襲撃を受ける。

船団指揮官でもあった艦長のフェーゲン大佐は船団に散開して退避する事を指示し、自らはシェーアを迎撃した。

六インチ砲装備の仮装巡洋艦と十一インチ砲装備の正規軍艦との戦力差は明白であり、最後まで砲を撃っていたと言われる勇戦ぶりを示すも一方的な展開でジャービス・ベイは撃沈された。

だが、彼女が時間を稼いだお陰で、間もなく訪れた夜の帳もあり、シェーアは船団の三十八隻中五隻しか沈める事が出来なかった。

艦長:エドワード・スティーヴン・フォーガティ・フェーゲン大佐。(戦死)


1939年11月23日、アイスランド水道を哨戒中、ドイツ海軍艦隊司令長官ヴィルヘルム・マルシャル大将座乗の巡洋戦艦グナイゼナウシャルンホルストと遭遇。シャルンホルストと交戦し、後退し味方と思い近づいた艦はグナイゼナウであり、避退出来ず勇戦の後に撃沈された。英側に発見された事によりドイツ側はそれ以上の進出を断念して撤退した。

この折に相手が三連装砲塔だった事からか、敵を装甲艦ドイッチュラントと誤認し、そう報告した為に英国側は既にドイツ本国に帰投している同艦を未だ通商破壊中と判断したという。

艦長:エドワード・カバリー・ケネディ大佐。(戦死)


闘志に火を灯す

ノルウェーに機雷を敷設するウィルフレッド作戦を支援する為に出撃した巡洋戦艦レナウンの護衛にあたっていたが、荒波に乗組員が浚われた為に艦隊を離れて探索中に艦隊を見失い、1940年4月8日朝、ノルウェー侵攻艦隊のドイツ駆逐艦ハンス・リューデマンと一時的に接触した後に遭遇したドイツ駆逐艦ベルント・フォン・アルニムと交戦。

その後、アルニムの連絡を受け、彼女と交代する形で参戦した重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと交戦するも戦力差は如何ともしがたく煙幕を張り逃れようとするが逃げきれず、最後の手段として体当たりをヒッパーの艦首に敢行。500tの浸水をさせる損傷を与えるも、自らは艦首を失い転覆した。

艦長:ジェラード・ブロードミード・ループ少佐。(戦死)


センシティブな作品センシティブな作品画像は擬人化したアカスタ(左)アーデント(右)。

1940年6月8日、ノルウェーより撤退中の空母グローリアスを護衛中、ドイツ海軍艦隊司令長官ヴィルヘルム・マルシャル大将率いるドイツ巡洋戦艦グナイゼナウ(旗艦)、シャルンホルストの攻撃を受ける。

両艦はただちに煙幕をグローリアスに張ってその姿を覆うと共に、煙幕を利用して不意の魚雷攻撃を図るなどマルシャル提督が称賛する程の奮戦を見せたが、まずアーデントが力尽き、アカスタは奮戦しシャルンホルストに魚雷を一本命中させて一矢報いるもそこまでとなり撃沈され、グローリアスも沈められ両艦とも任務を果たす事は出来きなかった。

この折にドイツ艦隊は救助活動をせず、その為に後にドイツ水上機にアーデント、ノルウェー商船にアカスタの生存者がそれぞれ二名救助されるも、二人が間もなく死亡した為に両艦の生存者はそれぞれ一名に過ぎなかった。

アカスタ艦長グラスフォード中佐の最期は「ごきげんよう。諸君に神の加護のあらんことを」と退艦する乗組員に呼びかけ煙草をくゆらせながら艦橋に立つ姿であったという。

しかし任務こそ果たせなかったが、シャルルンホルストを撃破して敵を一旦後退させた事によりノルウェーを撤退中の船団は救われる事となった。

アカスタ艦長:C・E・グラスファード中佐。(戦死)

アーデント艦長:ジョン・F・バーカー少佐。(戦死)


HMS "Peterel"画像は擬人化。

1941年12月8日の太平洋戦争開戦時、上海に停泊中だったところを日本軍に陸海から包囲される。

隣にいたアメリカ海軍の砲艦ウェークがあっさり降伏する一方、降伏を拒否し撃沈される。


HMSエクセター

ドイツ装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーと交戦したラプラタ沖海戦の奮戦で有名な武勲艦であり、ABDA艦隊に本艦が参加した折は艦隊の士気はあがったと言われる。

スラバヤ沖海戦でABDA艦隊は壊滅し、バタビアからチラチャップへ駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープと共に脱出の途上の1942年3月1日、日本海軍の第三艦隊、第五戦隊の重巡洋艦四隻、駆逐艦四隻と交戦し、スラバヤ沖海戦で機関室に被弾していた本艦は敵より逃れる事は出来ず奮戦の後に降伏する事無くエンカウンターと共に撃沈された。

この折、ポープは辛うじて逃れたものの、今度は空母龍驤の艦載機の攻撃により損傷し放棄され、日本艦隊に止めを刺されている。

またこの折の救助活動での駆逐艦工藤俊作中佐の紳士的な対応が有名。英側も救出の折の秩序だった様子を日本側から証言されている。

エクセター艦長:オリバー・L・ゴードン大佐。


【艦これ風】E級英国駆逐艦

画像は擬人化。


レパルス巡洋戦艦レパルス

第二次世界大戦において英国に残された3隻の巡洋戦艦の1隻であった。

ノルウェーで独戦艦ティルピッツがたった1隻で英国主力艦隊を釘付けにしている状況を見たウィンストン・チャーチルが発案した日本への抑止力として最小の戦力で最大の効果をあげる事を期待され、風雲急を告げるシンガポールに最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと共に派遣される。

この折の発表で宣伝効果を重視した英国から最新鋭の戦艦ウェールズと他一隻という扱いを受けたレパルスの乗員には不満を持つものが多かったといわれる。その一方で日本側では36cm砲のウェールズより38cm砲を持つレパルスを警戒する声が多かったとも言われる。

1941年12月10日のマレー沖海戦では3隻の駆逐艦の護衛のもとウェールズと共に日本軍の空襲を受ける。

第二波の元山航空隊九六式陸上攻撃機の雷撃による左舷後方の推進軸付近への1本の魚雷命中で、其の破口と曲がった推進軸シャフトが艦底を叩き続けた事による大量の浸水で電源供給の多くを失いウェールズが早々と戦闘能力をほぼ喪失するなか、レパルスは第一波の美幌航空隊の白井義視大尉の8機の96式陸攻の見事な水平爆撃で右舷飛行機格納庫最上甲板付近に爆弾1発が命中し水上機が1機破棄され、高圧蒸気管の数本が破壊されたものの戦闘航行に支障は無かった。

それどころか、白井隊の空襲の後に旗艦ウェールズのトーマス・フィリップス大将から空襲時の各艦の操艦の自由裁量を得るや機関員が悲鳴をあげるような回避行動を老練な艦長テナント大佐は巧みに行い、第二波の元山航空隊高井貞夫大尉の指揮する96式陸攻7機の挟撃雷撃は高井大尉がレパルスを日本海軍戦艦金剛と当初誤認して躊躇したころもあり回避し、更に再度水平爆撃を行ってきた白井隊の爆撃も、美幌航空隊高橋勝作大尉指揮の8機の96式陸攻の雷撃も全て回避した。

第二波の空襲後に旗艦の異常を認めたテナント大佐は艦を援護の為にウェールズに近づけ、それと同時にフィリップス提督が未だに無線封止を続けている事を知り、独断で空襲を受けている事と艦隊の現在位置を無線で報じている。

第三波の一式陸上攻撃機26機からなる鹿屋航空隊の雷撃の主攻は既に半死半生のウェールズでなくほぼ無傷のレパルスに向けられる事となった。

ウェールズが4本の魚雷を被雷している一方、レパルスには右舷から8機が雷撃を行い、これを回避した折にウェールズに向かうと思われた3機が急に進路を変更しレパルスに左舷から襲い掛かり1本の魚雷を命中させた。この攻撃はレパルスの乗員から見事だったと賞賛されたという。

次に壱岐春記大尉指揮する9機のうち6機は右舷の様々な方向から、そして左舷からは編隊を組んで壱岐大尉が直卒する3機がというこの海戦で最高の挟撃戦術でレパルスに襲い掛かった。

右舷の雷撃をかわたレパルスに壱岐大尉の3機は2機を失ったものの全魚雷を命中させ、更に船足が落ちたレパルスの右舷に右舷側の比較的遠距離から放たれていた魚雷も命中しE罐を破壊、彼女は12時33分に左舷に転覆して海中に没した。

1300名余りの乗員のうち艦長のテナント大佐を含む800名未満の乗員が救出された。戦闘能力喪失から沈没までに比較的時間があったウェールズと違い、最後の被雷から4分あまりで沈んだレパルスは其の直前まで戦闘可能状態で乗員が戦闘配置状態にあったことから犠牲率はウェールズより多かった。一方、「老齢で防御の薄いレパルスでは、これほどのダメージからは回復不能」と、テナント艦長が早々に見切りをつけ、総員退艦を発令したために、極めて短時間での沈没にもかかわらず、過半数の乗員を救命できたとの評価もある。

海戦後、レパルスの乗員の間では艦隊の指揮をフィリップス提督ではなくテナント大佐が執っていたら様相は様変わりしたのではないかと囁かれたという。

テナント大佐は後に少将に昇進し、1940年のダンケルク撤退戦に携わった経験を買われ、1944年のノルマンディー上陸作戦にも携わっている。

艦長:ウィリアム・テナント大佐。


センシティブな作品

画像は擬人化。


インド王立海軍編集

1942年11月11日、オランダのタンカーオンディーナ号を護衛中に日本海軍の特設巡洋艦報国丸愛国丸の襲撃を受ける。

元は商船でも15㎝砲を装備した特設巡洋艦に7.5㎝砲では勝敗は見えていたが、オンディーナ号を退避させながら自らは矢面に立って交戦するも損傷する。

だが、逃げるオンディーナ号が放った四インチ砲が報国丸に命中炎上。火災は魚雷を誘爆させ遂には報国丸を沈めるに至り、愛国丸が報国丸の救助に向った為にベンガルも一時放棄されたオンディーナ号も助かる事が出来た。優勢な敵に思いもよらぬ形で勝利した両艦は、海戦で離ればなれになった為に互いを撃沈されたのだろうと誤認していたという。

艦長:ウィリアム・J・ウィルソン少佐。


アメリカ合衆国海軍編集

USS NorthamptonHoustonよ、邂逅求む!!画像左は姉妹艦のノーサンプトン、右は擬人化。

スラバヤ沖海戦にて壊滅したABDA艦隊の残存艦としてバタビアに退避したが、チラチャップへの移動命令を受け、豪軽巡洋艦パースのウォーラー艦長の指揮のもと脱出を図るが、1942年3月1日、バンダム湾に上陸中の日本第16軍を護衛中の第三水雷戦隊、第七戦隊からなる重巡洋艦二隻、軽巡洋艦一隻、駆逐艦十三隻の日本艦隊とまともにぶつかる事となった。

スンダ海峡を封鎖され、日本艦隊に包囲される形となった彼女は以前の空襲で第三砲塔が使用不能となり砲弾も不足していたが、海戦の最中、第三砲塔から他の主砲塔に不足する砲弾を乗組員が人力で運搬するなど奮戦して駆逐艦三隻を小破させるも、自艦も一説によれば50発以上の砲弾、5本以上の魚雷を受けてパースと共に撃沈された。

艦長:アルバート・ハロルド・ルックス大佐。(戦死)


USS Johnston (DD-557)一騎当千USS Samuel B. Roberts (DE-413)

USS Hoel ( DD-533 )

彼女達はクリフトン・スプレイグ少将率いる第77.4.3任務群の護衛空母の護衛にあたっていた駆逐艦三隻、護衛駆逐艦四隻のうちの三隻であり、1944年10月25日、既に退却したと思われていた日本艦隊の主力である戦艦四隻、重巡洋艦六隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦十一隻からなる栗田健男中将率いる第二艦隊を中核とした第一遊撃部隊と不意の遭遇をした。

守るべき護衛空母は速力僅か19ノットと第二艦隊を構成するどの艦よりも低速で、このままでは壊滅は時間の問題であったが、護衛隊は煙幕を張り、折からのスコールも利用した護衛空母の逃走を助け、更には圧倒的に優勢な敵艦隊に時間稼ぎの為に反転して迎え撃った。

ジョンストンは重巡洋艦熊野に魚雷を命中させ、ホーエルは戦艦金剛、重巡洋艦羽黒、軽巡洋艦能代と撃ちあい、ロバーツも戦艦金剛、その他の重巡洋艦と果敢に撃ちあったが、戦力差は明らかであり遂にそれぞれが撃沈された。

だが、彼女たち護衛隊の勇戦と、艦載機の攻撃、また日本側が護衛空母を正規空母と誤認して徹甲弾で射撃した為に砲弾は装甲の薄い米護衛空母を貫通するだけで効果が薄かった事等から、栗田提督が本来の目的であるレイテ湾突入に備えて弾薬・燃料の消耗を押さえるべく攻撃を中止した時に第77.4.3任務群で沈没した護衛空母はガンビア・ベイ一隻に留まった。

加えて、道連れに第二艦隊の重巡三隻を仕留め(一隻撃沈、二隻は航行不能の末に自沈処分)、結果的にレイテ突入をも阻止したのだから、戦略的には完勝に等しい戦果だった。

勇戦した三隻はそれぞれが称賛され、ロバーツは「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」の愛称を得た。

ジョンストン艦長:アーネスト・E・エヴァンズ中佐。(戦死)

ホーエル艦長:レオン・S・キンツバーガー中佐。

サミュエル・B・ロバーツ艦長:ロバート・W・コープランド少佐。


クリフトン・スプレイグ少将率いる第77.4.3任務群所属の護衛空母。

1944年10月25日に戦艦四隻、重巡洋艦六隻からなる栗田健男中将率いる第二艦隊と遭遇し、砲撃による攻撃を受ける。第77.4.3任務群所属の護衛空母は砲弾の降る中で艦載機を発進させつつ備え付けの38口径5インチ砲(各艦に1基)で反撃、特にホワイト・プレインズカリニン・ベイは追撃してきた鳥海羽黒に命中弾を与え、撃退に成功した。


「ノースカロライナ」級戦艦画像はノースカロライナ級戦艦

1942年11月13日深夜の第三次ソロモン海戦にてダニエル・キャラハン少将の艦隊はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場砲撃に襲来した日本艦隊を撃退したものの壊滅した為に空母エンタープライズを主力とするトーマス・キンケイド少将の第16任務部隊からウィリス・リー少将率いる戦艦ワシントン(旗艦)、サウス・ダコタ、駆逐艦四隻からなる第64任務部隊が急遽編成され、戦艦一隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦九隻からなる近藤信竹中将率いる日本第二艦隊艦隊迎撃に向った。

11月15日の夜から始まった海戦は、編成当初は戦隊司令もいなかった駆逐艦戦隊は壊滅し、大きく損傷した駆逐艦ベンハムを同じく損傷した駆逐艦グウィンが援護しながら戦場を離脱。

僚艦サウス・ダコタは損傷と人的ミスから電源が落ちる等のアクシデントで本来の能力を発揮出来ないうちに第二艦隊の戦艦霧島、重巡洋艦愛宕高雄などから猛撃を受け大破して苦戦。

戦況は米側に不利であったが、レーダーで既に霧島を捉えていたものの同士討ちを警戒していたワシントンが霧島を砲撃で戦闘・航行不能に追い込むや戦況は激変した。

その後、サウス・ダコタも戦場を離脱した為に単艦での戦闘を強いられたワシントンであったが、彼女を攻撃した日本艦隊の酸素魚雷は殆どが自爆した為もあり命中せず、ワシントンを撃沈と誤認し、霧島が無力化された時点でヘンダーソン飛行場砲撃の任務は失敗したと判断したのか第二艦隊も撤退した為に彼女の損傷は12㎝砲一発の被弾に留まり、日本艦隊を撃退して任務を果たした。

艦長:グレン・B・デイビス大佐。


「浮気なお転婆娘」

(画像はおなじクレムソン級駆逐艦の『スチュワート』)

19423月にクリスマス島沖で給油艦ペコスを護衛中に空母四隻を中心とする南雲機動部隊と遭遇。ペコスは撃沈されるものの一隻になったエドサルは数時間に渡って巧みな操船で砲撃を回避し南雲艦隊を翻弄するが蒼龍艦載機の攻撃を受けたところを霧島比叡筑摩利根の砲撃を受け撃沈する。



第三次ソロモン海戦において戦艦比叡と一騎打ちをし、撃沈されながらも比叡を行動不能に追い込む。



アメリカ連合国海軍編集

アイアンクラッド:南軍装甲艦アーカンソー号のサーガ


南軍通商破壊艦CSSアラバマ(二度目)


ドイツ海軍編集

独国戦艦。

艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス大将の旗艦としてライン演習作戦に参加し、巡洋戦艦フッドを沈めるなど活躍するも、ソードフィッシュ雷撃機の魚雷で舵が固定されて航行の自由を失い、1941年5月27日、英戦艦キング・ジョージ5世ロドネイ、重巡洋艦ノーフォークドーセットシャーに捕捉された。

第二射でロドネイを夾叉する腕前を見せるもビスマルクの不利な状況には変わりなく展開は一方的なものとなり一説では400発以上の砲弾を受け浮かべる残骸と化し、ドーセットシャーの三発の魚雷で止めを刺された。

強靭に耐えた理由は英側が近接射撃を行った為に砲弾は水線下部に命中しなかった為と言われる。また上部構造物は破壊されたが、舷側装甲を貫通したのは数か所のみであった。

艦長:エルンスト・リンデマン大佐。(戦死)


Rendsburger Hochbrucke

戦闘グループ司令長官代理エーリヒ・バイ少将の旗艦として船団攻撃の為に出撃した1943年12月26日の北岬沖海戦では、護衛の駆逐艦五隻を索敵の為に南西に放ったが、シャルンホルスト出撃を察知した英側が船団の位置を更に北西に変更した為に無意味なものとなり、シャルンホルストは終始孤立した戦いを強いられる事となった。

逆探で自己の位置を暴露する事を恐れてレーダーを使用していなかったシャルンホルストは英間接護衛部隊フォース1を構成する巡洋艦戦隊との戦闘で不発弾ではあったが前部レーダーを使用せぬまま失い、作戦を中止して帰投する途中、今度は英本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将の旗艦である戦艦デューク・オブ・ヨークを中心とした間接護衛部隊フォース2に捕捉され、レーダーを失ったシャルンホルストには暗闇の中で打ち上げられた照明弾は完全な奇襲となった。

それでも30ノット以上の速力を発揮するシャルンホルストは戦場よりの離脱を図り、それに27ノットのデューク・オブ・ヨークは勿論、高速の巡洋艦・駆逐艦も荒天下での荒波に小さな船体が災いして思うように速力を出す事が出来ず、シャルンホルストは逃げきれるかと思えたが、デューク・オブ・ヨークの砲弾が第一機関室に命中して速力が落ち、更に追いついた駆逐艦からの魚雷が4本命中して離脱の望みは絶たれた。

戦艦一隻、重巡洋艦一隻、軽巡洋艦三隻、駆逐艦四隻の重囲の中、シャルンホルストは一説では13

発以上の大口径弾、11本以上の魚雷を受けて撃沈された。

艦長:フリッツ・ヒンツェ大佐。(戦死)


装甲巡洋艦シャルンホルスト画像はシャルンホルスト。

両艦は第一次世界大戦での青島を根拠地とするドイツ東アジア巡洋艦戦隊(ドイツ東洋艦隊)の主力であり、シャルンホルストは司令長官であるマクシミリアン・フォン・シュペー中将の旗艦であった。またグナイゼナウはドイツ艦隊の演習で表彰される程の射撃の腕前を持っていた。

大戦勃発時、太平洋巡航に出ていた両艦はきな臭くなってきた世界情勢を考慮して青島に戻らずボナぺ島にあった。

その後、各地に分散していた艦艇と合流し、艦隊での長期通商破壊には大量の石炭が必要な事からその任務にはそれを希望した防護巡洋艦エムデンだけをあて、本隊はドイツ主力艦隊と合流する為に故国を目指す事となった。

チリでのコロネル沖海戦で英西インド艦隊を壊滅させた東アジア巡洋艦戦隊はおよそ一ヶ月後の1914年12月8日の朝、フォークランド諸島襲撃を意図してまずグナイゼナウと防護巡洋艦ニュルンベルクを偵察に派遣したが、両艦がそこで発見したのは装甲巡洋艦の天敵とも言うべき巡洋戦艦インヴィンシブルインフレキシブルの姿であった。

 戻った両艦からその情報を知ったシュペー提督は襲撃を中止して離脱を図ったが、ポート・スタンリーを出撃した巡洋戦艦二隻、装甲巡洋艦三隻、軽巡洋艦一隻からなるダブトン・スターディー中将率いる英南大西洋・太平洋艦隊から逃れきれず、13時25分にシュペー提督は防護巡洋艦三隻を分派して離脱を命じ、自らはグナイゼナウと共に殿となるが、英側もこれを予想しており、巡洋戦艦で装甲巡洋艦にあたり、装甲巡洋艦と軽巡洋艦には防護巡洋艦の追跡を続行させた。

優速と強力な打撃力という巡洋戦艦の強みを最大限に利用した英側の前に、シュペー提督の奮戦も及ばず展開は一方的なものとなり16時17分にシャルンホルストが、17時40分にはグナイゼナウが撃沈され、シュペー提督も戦死した。

このフォークランド沖海戦で巡洋戦艦の装甲巡洋艦に対する優位が証明されたが、近距離戦を避けた事もあり英側も弾薬を殆ど消費したという。

艦長:フェリックス・シュルツ大佐(シャルンホルスト艦長。戦死)

   ユリウス・メルケル大佐(グナイゼナウ艦長。戦死)


続 メーヴェに乗って

画像はナウシカのパロディ。

1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦で未明にドイツ海軍としては初めて反撃を行ったのはル・アーブルを拠点とするハインリッヒ・ホフマン少佐に率いられる第五水雷艇隊の彼女達であった。

英軍によってソードというコードネームを与えられた上陸地点の沖で彼女達は戦艦二隻、重巡洋艦一隻、軽巡洋艦四隻、駆逐艦十三隻、モニター艦一隻からなる連合軍上陸支援艦隊と交戦する事となるが、隔絶した戦力差にもかかわらず自由ノルウェー海軍駆逐艦スヴェンナーを撃沈し、犠牲を出す事無く退避する事に成功している。

その後も彼女達はゲリラ的にノルマンディー沖の連合軍艦隊を襲撃するが効果は薄く、6月15日のル・アーブルへの空襲で失われた三十隻以上のドイツ軍艦艇にはメーヴェとヤグァールも含まれており、難を逃れて本国に帰還したのはホフマン司令の旗艦であったT28のみであった。

艦長:ヘルムート・バスティアン大尉(メーヴェ)

   ハインツ=ユルゲン・ゾンネンベルク大尉(ヤグァール)

   ハンス・テミング大尉(T28)


グラーフ・シュペーに日は昇る。

第二次世界大戦勃発時には、その事態も考慮されていた為に既に大西洋上にあり、1939年9月26月の海軍総司令部よりの攻撃命令を受け通商破壊を開始。英仏より派遣された大規模な捜索艦隊の目を掻い潜り南太平洋、インド洋で九隻の商船を撃沈した。

12月13日、ラプラタ河口に向っていた本艦はヘンリー・ハーウッド代将率いる英G部隊の三隻と遭遇。海軍総司令部より不要な戦闘は避けよとの命令を受けていたにもかかわらず、自信過剰となっていたのか、輸送船団の護衛艦隊と誤認し駆逐した後に船団を襲う事を意図したのか、6時17分、交戦状態に突入した。

ハーウッド提督はシュペーの強力な火力を分散させる為に艦隊を旗艦である軽巡洋艦エイジャックスアキリーズ、重巡洋艦エクセターの二つに分けて挟撃を図り勝機を掴もうとした。

これに対しシュペーのラングスドルフ艦長は軽巡洋艦には副砲で応じ、まずはG部隊で一番強力なエクセターの撃破を最優先として七発の主砲弾を命中させ、その結果、エクセターは三基ある主砲塔のうちの二基が沈黙し、速力も18ノットへと低下した。

だが、英軽巡洋艦の攻撃も猛烈なものであり、エクセターに止めを刺す事無くシュペーは主砲をもその排除に使用せねばならない状況に陥っていた。

7時16分にシュペーは戦場よりの離脱を図り、海戦は追跡戦へと移行した。当初はそれをエクセターに止めを刺す行動と誤認して激しく戦闘した英側もエクセターが浸水による電源供給停止で残った主砲塔も使用不能となりフォークランドに修理も兼ねて撤退せざるを得ない状況になり、またエイジャックスも三、四番砲塔が使用不能で火力半減、更に誤報で艦隊の残弾も不足とされた事から戦闘継続は困難と判断し追跡に留めた。(ラプラタ沖海戦

一方、シュペーは二十発あまり被弾したが、逃走中にも商船を臨船する余裕をみせるなど致命傷はないものの左舷艦首水線上の被弾などで本国への帰還は困難と判断され修理の為に14日0時50分ウルグアイのモンテビデオ港に投錨した。

その後は少しでも修理に時間を稼ぎたい独側と、ウルグアイにシュペーが抑留されるのがベストながらも、そうでないなら援軍到着まで時間を稼ぎたい英側の外交での戦闘が展開され、中立国滞在は航行困難でない限り24時間というハーグ条約がありながらも72時間の滞在の猶予をシュペーは得る事が出来た。だが、彼女の修理には最低一週間はかかるとされ、また実際は港外に展開するハーウッド提督の元に到着したのは重巡洋艦カンバーランドだけだったにもかかわらず英側の情報操作と見張員の誤認で既にシュペーの天敵ともいえる巡洋戦艦レナウンを含めた有力な艦隊が到着しているとラングスドルフ艦長は判断していた。

また一説には軍事機密の為に公には出来なかったがドイッチュラント級装甲艦は粘度の高い船舶用ディーゼル燃料を機関に送る前に中間タンクで加熱して液状にしていたが、そのタンクに加熱の為にボイラーからの蒸気を送るパイプの一部が甲板上に非装甲で露出しており、そこが被弾して加熱不能となった為に16時間あまりしか活動できない状況にあり、修理にも二週間余りかかるものであったという。

17日、シュペーは出港し、ラプラタ河口で20時54分、時限爆弾の爆発により自沈を遂げた。

19日、ラングスドルフ艦長は逗留先のアルゼンチンのブエノスアイレスで軍艦旗を巻き付け拳銃自殺を遂げ自沈の責任をとった。

艦長:ハンス・ヴィルヘルム・ラングスドルフ大佐。


SMS EMDEN

第一次世界大戦が始まり、暗雲立ち込めてきた青島をエムデンは1914年8月7日に出港し、ボナぺ島でドイツ東アジア巡洋艦戦隊と合流した。その折に艦隊戦力はアジアに展開している連合国海軍に比べ劣勢であり、インド洋で艦隊が行動すれば大量の石炭が必要である為に南アメリカを回り本国に帰国する事を決意した司令長官マクシミリアン・フォン・シュペー中将に対してミュラー艦長は、艦隊への継続的な補給が困難であるインド洋に軽巡洋艦を最低一隻でも派遣してドイツ海軍の存在を印象付け、イギリスの植民地であるインド人民に好印象を与える事を提言。それを認められ艦隊と別れたエムデンはインド洋を中心として伝説的な通商破壊を開始した。

その活動は30隻以上の商船を撃沈・拿捕したばかりか、マドラス島の石油施設を砲撃し、ペナン港では大胆不敵にも夜間港内に侵入してロシア防護巡洋艦ジェムーチュクを撃沈し、更に港外でフランス駆逐艦ムスケも撃沈するなど神出鬼没の行動で、彼女の捜索に奔走する70隻以上の連合軍艦艇を煙に巻いていた。

しかし、それだけの打撃を連合国に与えながらも、ミュラー艦長の国際法に則った紳士的な振る舞いもあって連合国民のエムデンへの世評には好意的なものも多く、彼女が拿捕・撃沈した商船インダスに自社の石鹸を載せていた会社は「我々の素晴らしい石鹸はエムデンでも使われています」と宣伝するほどであった。

11月9日、エムデンは英通信基地の破壊の為に陸戦隊を上陸させると共に補給船ブレスクから石炭の補給を得る為にココス諸島のディレクション島に投錨した。

だが基地では既に四本のうち一つは偽装の煙突を付けた不審な巡洋艦が停泊しているとの情報は知られており救難無線が発せられていた。更にエムデンには不運な事にたまたま付近をオーストラリアに兵員を輸送中の大船団が航行しており、無線を受けた三隻からなる護衛艦隊の司令官でもある軽巡洋艦メルボルンの艦長は護衛の任務を放棄する事は出来ず、また戦闘旗を掲げた装甲巡洋艦伊吹の要請は彼女が護衛艦隊で最も強力な艦である事から却下し、軽巡洋艦シドニーにその探索を命じた。

エムデンとの会合に向っていたブレスクはその接近を認めエムデンに無線を発したが応答は無く、エムデンもブレスクを呼び出したが応答を得ず、シドニーの出現は付近に敵艦はいないと無線傍受から判断していたエムデンにとって完全な奇襲となった。

9時30分、エムデンは抜錨し、40分に彼女の砲撃から戦闘は開始された。

シドニーはエムデンに対して攻防走と勝っており、またボイラーを休息させていたエムデンは最高速力に必要な蒸気圧を得れず不利な状況であったが、その射撃は正確であり第三斉射で相手の測距儀を破壊し緒戦でのシドニーの射撃を困難にしたものの、優速と強固な装甲でエムデンの攻撃をいなし、強力な打撃力で一方的に打撃を与え続けるシドニーの前にエムデンは破壊されていき、敗北を悟ったミュラー艦長は乗組員を海に投げ出す結果とならぬ為に11時15分、ノースキーリング島に艦を座礁させた。

16時頃にブリスクを自沈に追い込んでシドニーが戻ってきたが、エムデンは戦闘旗を掲げたままの為に再度砲撃が加えられ、ミュラー艦長は戦闘旗を降ろし降伏の信号を送り戦闘は終結した。

捕虜となったエムデン乗組員に対するシドニー側の待遇は好意的なものであり、エムデンの最期を知った各国の新聞もエムデンの活躍を称賛し、中にはミュラー艦長の活躍が失われた事を嘆くものもあったという。

ディレクション島に上陸したヘルムート・フォン・ミュッケ大尉率いる陸戦隊は放置されていたスクーナーで島を脱出し、様々な苦難の末にインド洋・アラビア半島を経由して1915年5月23日にコンスタンチノープルに辿りついている。

艦長:カール・フォン・ミュラー中佐。


帝政ドイツのアジアの拠点であり、東アジア巡洋艦戦隊の根拠地でもあった青島は第一次世界大戦が勃発した時点では主力艦は封鎖される事を恐れて既に無く、1914年8月26日に英国の戦艦一隻・駆逐艦一隻の増援を受けた戦艦三隻、巡洋艦六隻、海防艦三隻を中心とする日本第二艦隊によって膠州湾を封鎖された時にはS90の他には駆逐艦一隻、砲艦四隻を残すのみであり、他にはオーストリア=ハンガリー帝国の巡洋艦カイゼリン・エリザベートがあるだけであった。

1914年10月17日、S90は青島総督より上海への脱出命令を受け、19時に青島港を出撃。

途中、哨戒中の日本駆逐艦に発見され、これをやりすごしながら突破の機会を狙っていたが18日の00時15分にニ等海防艦となっていた歴戦の武勲艦である高千穂を発見。哨戒中の同艦がS90に気付いていない状況を利用しての奇襲で二発の魚雷を命中させ、搭載していた機雷が誘爆した高千穂を撃沈した。生存者は三名のみであった。

その後、日本艦隊の追撃を受けたS90は逃げきれずに6時に青島南の海岸に座礁し自爆を遂げた。

高千穂は日本が第一次世界大戦で失った最大の軍艦であり、また明治に日本海軍が設立されてより初めて撃沈された軍艦でもあった。

艦長・パウル・ブルンナー大尉。


練習艦として建造されたが、他にもドイッチュラント級装甲艦搭載予定のディーゼル機関、Z1型駆逐艦に搭載予定の主砲を装備するなど次世代の近代軍艦建造の為の実験艦的な側面も持っていた。

1940年9月7日の夜、コラ半島攻略の為に第六山岳師団を乗せた二隻の輸送船を小艦艇三隻と共に護衛中、英海軍の軽巡洋艦ナイジェリアオーロラと遭遇。

輸送船団を逃す為にブレムゼは単艦突撃を敢行。彼女の展開した煙幕と、彼女を駆逐艦と誤認し魚雷攻撃を警戒して英側が慎重な戦いをした事もあり、船団を逃す事に成功する。

だが全砲塔を失いながら最後にはナイジェリアと衝突したとも言われる力戦奮闘の後に彼女は撃沈され、生存者は37名に過ぎなかった。

艦長:ヘルマン・フォン・ボイジ=シュタインベルク少佐。(戦死)


「ヒトラーの失われた艦隊」

『アドルフ・ヒトラーの失われた艦隊』と呼ばれる、ドイツ海軍第30Uボート戦隊所属。

拠点としていたルーマニアが連合国側に参戦したため、自沈した上で乗員はトルコへ脱出。


1914年に単独でドイツ領東アフリカから出撃しイギリス艦隊の封鎖を突破、ザンジバル島で修理中のイギリス防護巡洋艦ペガサスを襲撃し撃沈。その後タンザニアの河川のデルタ地帯奥地へ潜り込み、陣地化。追撃してきたイギリス部隊に対して半年間立て篭もる。1915年に侵入してきたイギリス砲艦二隻により撃沈。


巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム



ドイツ海軍仮装巡洋艦アトランティス仮装巡洋艦アトランティス


スカイルーイン



イタリア海軍編集

1942年5月21日、激戦が続くクレタ島への海上からの侵攻部隊からなる船団を護衛中に英軽巡洋艦オライオンエイジャックスダイドー、駆逐艦四隻の攻撃を受ける。

圧倒的な敵を前にルポは損傷を受けるも奮戦し、その為に25隻の船団中、なんとか損失を10隻に抑える事が出来、また彼女も生還した。

1942年12月2日、英駆逐艦四隻の攻撃により撃沈された。

艦長:フランチェスコ・ミンベリ少佐。


ナヴィガトーリ級駆逐艦画像はナヴィガトリ級駆逐艦。

1941年4月16日、商船五隻からなるトリポリ向け船団の船団旗艦として艦長のクリストファーロ中佐が指揮を執り、ルカ・タリゴと駆逐艦バレノランポの護衛の元で航行中、フィリップ・マック大佐率いる英第14駆逐隊の駆逐艦四隻の襲撃を受ける。

レーダーの無いイタリア海軍の苦手な夜戦であり、艦艇の質も新鋭艦揃いの英側に比べ旧式な事もあり船団は全滅。バレノは撃沈され、ランポは大破擱座した。

旗艦であるルカ・タリゴも艦橋に命中弾を受け、右脚を切断されながらも指揮を続け出血で絶命したクリストファーロ中佐をはじめ首脳部が壊滅し苦戦を強いられた末に撃沈されたが、それでも辛うじて放った魚雷が英駆逐艦モホークを撃沈し一矢報いた。

艦長:ピエトロ・デ・クリストファーロ中佐。(戦死)


1924年5月29日に竣工し、1938年に水雷艇に艦種変更された。

1940年6月14日早朝、機雷敷設艦エルバノ・ガスぺリを護衛中にジェノヴァを砲撃中の重巡洋艦二隻、駆逐艦五隻からなるフランス艦隊とカラタフィミは遭遇した。

カラタフィミはガスぺリを退避させると自らはフランス艦隊に単艦で突撃を敢行し、砲雷撃を行うも命中を得る事は出来なかった。

しかしフランス側もこれからも続々とイタリア側の援軍が現れる事を考慮して撤退した。

後に同艦はドイツ軍に接収され1944年8月9日にギリシャ潜水艦ピピノスによって撃沈された。

艦長:ジュゼッぺ・ブリニョーレ大尉


トーチ作戦で1942年11月に北アフリカに英米連合軍が上陸し、東西から挟撃される形となったアフリカの枢軸国軍にとって戦局は絶望的な状況になりつつあったが、彼等を維持するために制空権をとられたなかでもイタリア本国からの補給が細々と続けられていた。

1943年4月15日にトラーバ二を発った水雷艇チーニョ、カシオペアに護衛された輸送船ベルーノからなる船団もその一つであり、チーニョ艦長のマカフェリ少佐が指揮官としてチェニスに向かっていた。また後詰として水雷艇ティフィーネクリメーネも後航していた。

満月の晴れた夜空の下、02時38分、船団は正体不明の艦影を二つ発見し、チーニョとカシオペアは戦闘準備を行いながらこれに接近し識別信号を放つも回答は無かった。

この二隻は英国駆逐艦パケナムパラディンで、パケナム艦長のバジル・ジョーンズ中佐を指揮官とする部隊であり、レーダーで船団を発見して20ノットで接近し、42分にはイタリア側を発見していた。

48分のチーニョの砲撃から海戦は始まった。

イタリア側はチーニョがパナケムに命中弾を与えたもののチーニョも数発の命中弾を受け、03時10分頃にはパケナムの放った魚雷が命中し船体は真っ二つに折れる事態となった。しかし、後部は直ぐに沈んだものの、前部は沈むまでに二、三分間の猶予は残されており、その最期までの僅かな間に依然として彼女は砲撃を続け、そのうちの一弾はパケナムの喫水線に命中し、浸水を発生させると共に主蒸気管も破壊し、管から噴出した蒸気で機関員数名が火傷を負い、一時的に機関室と主発電室は放棄され行動不能とさせる被害を与えたものとなったという。

だが、パケナムはその損傷からまもなく復旧し、駆逐艦二隻相手にただ一隻奮闘するカシオペアに勝機は無いかと思えたが、英側が相手をカピタン・ロマー二級軽巡洋艦と誤認した事もあり、海戦は英側の撤退で終わった。

沈没したチーニョは103名あまりの戦死者を出し、カシオペアも50名あまりの死傷者を出して航行不能となったがクリメーネに曳航されトラバーニに帰還。護衛対象であったベルーノは無事チェニスに到着した。

対して英側は損傷したパケナムがマルタに帰投中に再び航行不能となり、パラディンに魚雷処分された。

満月で早い段階で敵を発見できた事もあり、暗闇の中の英軍のレーダー射撃で今まで散々煮え湯を飲まされてきたイタリア海軍にとっては稀有な夜戦での勝利となった。

艦長:カルロ・マカフェリ少佐(チーニョ)

   ヴィルジニオ・ナスタ少佐(カシオペア)


どれもイタリア紅海艦隊所属。

1941年、陸路も紅海とインド洋を繋ぐアデン湾も押さえられ完全に孤立した状況で反撃を試み全滅。

イタリア紅海艦隊のうち、通報艦エリトリアと仮装巡洋艦ラム二世が日本に、潜水艦がドイツ勢力下の仏領ボルドーにそれぞれかろうじてたどり着く。


→詳細項目を参照。


フランス海軍編集

French Battleship Jean Bart

1940年のドイツ軍のフランス侵攻時にはサン・ナゼール港にて艤装が行われていたが、ドイツ軍から逃れる為に6月22日にカサブランカ港に退避した折は主砲も二基中一基だけが搭載され、ボイラーも全てが搭載されていない未完成の状態であった。

1942年11月8日に連合軍の北アフリカへの上陸作戦であるトーチ作戦を迎え、戦艦一隻、空母一隻、護衛空母一隻、巡洋艦五隻、駆逐艦十九隻、潜水艦二隻からなるアメリカ海軍とジャンバールをはじめ巡洋艦一隻、駆逐艦十隻、潜水艦十一隻からなるカサブランカ在泊のフランス艦隊は相対する事となった。

ジャン・バールはカサブランカに退避してより工事が続けられていたが乏しい物資では限界があり、主砲に測距儀の代わりに測量機、高角砲を三基ほど増設した程度でアメリカ海軍の新鋭戦艦であるマサチューセッツに太刀打ちできるものではなかったが、それでも砲撃戦を交え被弾し、更には艦載機の攻撃も受け、主電源の故障で砲塔の旋回が不能となり沈黙した。

一方、出撃した軽巡洋艦プリモゲをはじめとするフランス艦隊はアメリカ艦隊に対し多勢に無勢であるうえに制空権も握られている事もあって壊滅状態となった。

敗色濃いなか復旧作業なった本艦は二日後には再び敵艦隊に砲撃を加えアメリカ側を驚かせたものの、これに対する反撃も激しく艦載機の攻撃とマサチューセッツの砲撃で大破着底し、再び主電源の故障で沈黙する事となった。(カサブランカ沖海戦

その後、カサブランカのヴィシー・フランス軍は降伏し、ジャン・バールは着底したまま放置されていたが戦後浮揚され、フランス海軍最後の戦艦として就役する事となる。

艦長:エミール・ジョルジュ・マリー・バルト大佐。


  • プリモゲ(デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦)

FNS リシュリュー (カラー)


第一次世界大戦時、フランス領タヒチ島のパペーテにあった木造の砲艦。

ドイツ東洋艦隊が襲撃する事を警戒し、ゼレー艦長で五十名にも満たないパペーテのフランス軍指揮官でもあるデトレモ大尉は艦から備砲の一部を外し陸上に設置、百六十名あまりのゼレー乗組員に陸上戦闘の訓練を施すなど防備を出来る限り固めていた。

1914年9月22日、パペーテはマクシミリアン・フォン・シュペー提督率いるドイツ装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウの襲撃を受ける。ドイツ側からは降伏勧告がなされたがフランス側はこれを拒否。脆弱なパペーテ守備隊では始まった戦闘は一方的なものであり、パペーテは艦砲射撃で大損害を受け、停泊していたゼレーと拿捕されていたドイツ商船ワルキューレは撃沈された。

だが、ドイツ側も目的である石炭がデトレモ大尉の指示で燃やされた事で占領の意義を失い、艦隊は上陸する事無く撤退した。

勇戦したデトレモ大尉はあろうことか誤報で軍法会議にかけられる事となり、失意の為かその前に病死したが、後にその名誉は回復されレジオンドヌール勲章が送られたと言う。

艦長:マクシム・デトレモ大尉。



オーストラリア海軍編集

先述したアメリカ重巡洋艦ヒューストンと共に奮戦するもバタビア沖海戦にて撃沈された。

艦長:へクター・ウォーラー大佐。(戦死)


ロシア海軍編集

ワリヤーグ

日露戦争開戦時、同艦は砲艦コレーエツと共に仁川港にあった。

1904年2月8日、陸軍一個旅団の仁川上陸を援護し、それを終えた瓜生外吉少将率いる第四戦隊の装甲巡洋艦一隻と巡洋艦五隻、水雷艇八隻からなる日本艦隊はロシア艦隊に9日正午までの出港を要求し、それを拒否すれば港内で撃沈する旨を領事を通じて伝えた。

それに応じた両艦は9日11時55分に仁川を出港し日本艦隊と交戦。突破を図りヴァリャーグは勇戦したものの展開は一方的なもので日本艦隊に一矢報いる事も出来ぬまま同艦は大破炎上、コレーエツも被弾しロシア側は仁川港に引き返した。

その後、日本側に拿捕される事を望まずコレエーツは爆破され、ヴァリャーグも自沈を遂げた。ヴァリャーグは後に日本側に引き揚げられ宗谷(初代)の名で就役することになる。

艦長:フセヴォロド・ルードネフ大佐。


建造時には帆走も兼ねた装備であり、近代改装化されてその設備は取り除かれたものの日露戦争当時は既に旧式艦であった。

ロシア第二太平洋艦隊バルチック艦隊)の第一巡洋艦戦隊の一艦として1905年5月28日より始まった日本海海戦に参加。27日の時点で第二太平洋艦隊は壊滅し、ドンスコイは単艦ウラジオストックを目指し北上していたが28日の17時50分頃に瓜生外吉中将率いる第四戦隊の巡洋艦四隻と第二駆逐隊の駆逐艦四隻に捕捉され、更に駆逐艦二隻と後述のスヴェトローナを仕留めた巡洋艦新高、音羽もその追跡に加わった。

瓜生提督は負傷した第二太平洋艦隊司令長官ジノヴィー・ロジェストウェンスキー中将の指揮を継いだニコライ・ネボガトフ少将が既に降伏した事を告げ、ドンスコイにも降伏を勧告したが、ドンスコイのレベーデフ艦長はそれを拒絶し19時20分頃に戦闘が開始された。

単艦で十二隻にも及ぶ日本艦隊を相手にするという圧倒的に不利な状況にもかかわらずドンスコイは奮戦し、命中弾で火災を生じさせながらも巡洋艦浪速を命中弾で傾斜させ、更に音羽にも損傷を与えたうえ、夜の帳が訪れた事もあり日本艦隊から逃げ切る事に成功した。其の後、同艦は鬱陵島の南海岸に投錨して乗組員全員を島に降ろした後にキングストン弁を開いて29日の9時15分頃に自沈を遂げた。

重傷を負ったレベーデフ艦長は上陸した乗組員と共に捕虜となり病院に収容されるも後日、息を引き取った。

艦長:イワン・ニコラエヴィッチ・レベーデフ大佐。(戦死)


ロシア第二太平洋艦隊第二巡洋艦隊の旗艦として1905年5月27日から始まった日本海海戦に参加。27日の戦闘で艦首を損傷する等の被害を受け大破し、駆逐艦ブイスツルイと共にウラジオストックを目指す。

28日の7時頃に追跡してきた日本海軍巡洋艦新高音羽に発見され、損傷の為に振り切れず残った6インチ砲2門で交戦し音羽に2発の命中弾を与えるも自らも命中弾を受け航行不能となり、弾薬を撃ち尽くして後は朝鮮半島沿岸で弾薬庫を爆発させての自沈をはかるも浸水で果たせず、シェイン艦長も戦死するなかそれでも降伏する事無く11時8分に海中に没した。

ブイスツルイは命運定まったスヴェトローナを見捨て、新高の追跡を振り切り、駆逐艦叢雲と交戦。朝鮮半島沿岸で自沈を遂げた。

艦長:セルゲイ・シェイン大佐。(戦死)


ロシア第3太平洋艦隊の一隻として1905年5月27日の日本海海戦に参加。

戦闘中に喫水線下に2発の命中弾を受け、その浸水により速力は10ノットに低下した為に第3太平洋艦隊から脱落し、単艦でウラジオストックを目指していた。

28日14時頃に第2艦隊第2戦隊司令官島村速雄少将の旗艦装甲巡洋艦磐手に発見され、更に装甲巡洋艦八雲もこの追撃に加わり、17時過ぎには島村提督から降伏勧告がなされたが、艦長のミクルカ大佐はこれを拒絶し戦闘が行われるも衆寡敵せず砲弾を撃ち尽くした後に自沈処置がとられ、最後まで降伏する事無く18時10分頃に海中に没した。

艦長:ウラジミール・ニコラエヴィッチ・ミクルカ大佐(戦死)


ぺトロパヴロフスク級戦艦3番艦。

日露戦争ではロシア太平洋艦隊に属し、ウラジオストックへの太平洋艦隊の回航が失敗に終わった黄海海戦後も航行可能な戦艦であった。

1904年12月5日、203高地が陥落し、そこに設けられた観測所の誘導による砲撃で6~8日のうちに旅順港の太平洋艦隊が次々と大破着低していくなか、五発の砲弾を被弾したセヴァストポリは座して死を待つよりは、と砲艦一隻を引きつれ9日に旅順港を出港し観測所から見えぬ老虎尾半島の城島山下に停泊した。

これを発見した日本海軍の攻撃は9日から始まり駆逐艦・水雷艇による80本あまりの魚雷攻撃を加え、機雷・魚雷網などに妨げられながらも18日に艦尾に魚雷を命中させ航行困難とさせた。

1905年1月2日、旅順は降伏し、その報を受けたエッセン艦長はセヴァストポリが日本軍に鹵獲されることを防ぐ為に沖合いに艦を進め自沈させた。

旅順降伏後の太平洋艦隊で唯一日本軍の鹵獲を免れた戦艦であった。

艦長:ニコライ・フォン・エッセン大佐。


ロシアの発注によりアメリカで建造された戦艦で同型艦は無い。

就役後にはロシア太平洋艦隊に編入され、戦艦ツェサレーヴィチと共に太平洋艦隊最良の戦艦と評された。

1904年の日露戦争では2月8~9日に日本軍の奇襲を受け被雷し、座礁しており、修理には6月まで費やした。

8月9日に日本軍の陸上からの120㎜砲の砲撃を受け7発を被弾、艦長のエドゥアルド・シェンスノヴィッチ大佐が負傷し、またそのうちの一発が喫水線下に命中し250トン程の浸水を起こし、穴は塞いだものの海水は排出する事は出来ないまま、10日に太平洋艦隊のウラジオストックへの脱出に同行し、封鎖していた日本艦隊と交戦する事となり、この黄海海戦で本来の速力が出せない彼女が艦隊の足を引っ張ったとも言われる。

この海戦で18時37分に旗艦ツェサレーヴィチは被弾により司令官であるヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将が戦死し、また他の被弾で艦長などの首脳部も死傷し、操舵手も戦死した混乱で左回頭するだけになった状態でロシア艦隊は大混乱となり、戦艦ペレスヴェートの副司令官パーヴェル・ウフトムスキー少将が指揮を引き継いだもののマストを破壊されていた為にその旨の信号旗は艦橋に掲げられ、視認できたのは後続の戦艦セヴァストポリだけであり、混乱を収拾する事は出来なかった。

ツェサレーヴィチの航続であったレトヴィザンも当初はそれに従ったが、やがてその異変を悟り、艦隊の窮状を救うべくか彼女は単艦で日本艦隊の主力である第一戦隊の後列艦である装甲巡洋艦日進に突撃して日本艦隊の集中砲火を浴び、シェンスノヴィッチ艦長は腹部に破片を受け生涯癒えない傷を負うも、四分五裂となったロシア艦隊の撤退を援護する事となった。そして日本艦隊も弾薬が底を突き初め、また夜を迎えた為に戦闘を打ち切り、18発被弾したレトヴィザンも単艦となりながら旅順に戻る事が出来た。彼女のこの行動には日進の船尾から戦場を単艦で突破しようとしたという説もある。

12月26日、二百三高地を観測点とする砲撃で13発の28㎝砲弾を受けたレトヴィザンは大破着底した。

1905年1月2日にロシア太平洋艦隊の旅順での先任将校として降伏に署名したのはシェンスノヴィッチ大佐であった。

9月24日、日本軍に捕獲されていた彼女は肥前と命名され日本海軍で使用され、1924年7月25日に標的艦として最期を遂げる事となる。

艦長:エドゥアルド・シェンスノヴィッチ大佐


装甲巡洋艦「リューリク」

画像は擬人化。


クニャージ・スウォロフ

(画像は同じボロジノ級のクニャージ・スヴォーロフ)

日露戦争には不参加だったため、戦後は貴重なバルチック艦隊の戦艦となる。

第一次世界大戦における1915年8月の第一次リガ湾攻防戦では水雷艇などとともに戦艦7隻、巡洋艦6隻のドイツ軍艦隊と対峙。撃退に成功する。

1917年のロシア二月革命で組織系統が機能不全になる中、ドイツ軍の弩級戦艦10隻、軽巡洋艦8隻を中心とする艦隊が来襲。スラヴァは戦艦一隻と軽巡洋艦一隻とともに出撃するが浅い海域で思うような操艦ができず、事実上スラヴァが単独での戦闘を強いられ撃沈される。


オーストリア=ハンガリー帝国海軍編集

1914年8月16日にアドリア海で駆逐艦ウランとともに作戦行動中、アドリア海へ侵入してきた14隻のフランス戦艦を主力とし、他に巡洋艦五隻、駆逐艦八隻からなる英仏艦隊と遭遇。駆逐艦ウランを逃がしながらフランス艦隊へ突進し撃沈された。

艦長:パウル・パッシナー中佐。


イラン海軍編集

1988年に原子力空母エンタープライズとミサイル巡洋艦ウェインライトを中心とするアメリカ機動部隊によるイランの油田への襲撃にたいして出撃。果敢に近距離での戦闘を試みるも壊滅、サバラーンのみが大破しながらかろうじて港にたどり着く。



トルコ海軍編集



中華民国海軍編集

1949年10月25日に金門島へ補給任務。任務終了後なぜか数日現地に留まる。

実は本艦は裏で砂糖と油の密輸を行っており、密輸品の到着を待っていたところ金門島に中国人民解放軍2万人近くが上陸舟艇に乗って来襲。

とっくに中栄が台湾に帰還したと思っていた人民解放軍部隊は中栄の砲撃で大きな被害を受け、最終的に撤退。

中国共産党による台湾侵攻はこの敗戦で頓挫した。



チリ海軍編集

太平洋戦争(南米)の最中の1879年5月21日、両艦はイキケを封鎖中、ペルー海軍装甲艦ワスカル、装甲フリゲートインデペンデンシアの襲撃を受ける。

共に木造船の両艦では装甲艦に太刀打ちは出来ず、コバドンガは離脱を図るが、エスメラルダは機関の故障でそれが出来ず、コバドンガ追撃をインデペンデンシアに任せたワスカルと一騎打ちとなり三度のラム攻撃を受け撃沈された。

その最中、エスメラルダ艦長プラット中佐は最初のラム攻撃を受けた時に接舷白兵戦を命じて自ら乗り込むが戦場の騒音で皆には伝わらずに続いた二人の兵士と共にワスカル艦上で戦死。二度目のラム攻撃の折も中尉に率いられた十名以上の兵士がワスカルに接舷白兵戦を挑み全滅するという奮闘ぶりをエスメラルダ乗組員は見せた。

一方、コバドンガはインデペンデンシアと砲戦を続けながら離脱を試みていたが、比較的浅瀬を選んで逃走する策が功を奏し、より喫水の深いインデペンデンシアがラム攻撃を試みてきた際にこれを座礁させ、自らも離脱する事に成功した。

このイキケ海戦でイキケ封鎖を解いて勝利したペルー軍であったが、二隻しか居ない装甲艦の一隻を失ったのは大打撃であり、以降はヒットエンドランの沿岸砲撃や通商破壊に海軍戦略を徹する事となる。

艦長:アルトゥーロ・プラット中佐(エスメラルダ艦長)(戦死)

   カルロス・コンデル少佐(コバドンガ艦長)



ペルー海軍編集

チリ海軍砲塔艦ワスカル

ボリビア・ペルーとチリとの戦争である太平洋戦争のイキケ海戦で装甲フリゲートインデペンデンシアを失ったペルー海軍の唯一の装甲艦としてワスカルは艦長でありペルー海軍司令官も兼任する名将ミゲル・グラウ少将の指揮のもと沿岸砲撃・通商破壊に活躍しチリ海軍を翻弄していた。

1879年10月8日、チリ沿岸襲撃の帰路にグラウ提督率いる本艦(旗艦)とコルベットウニオンガルバリーノ・リべロス代将率いる装甲艦二隻、コルベット一隻、砲艦一隻、輸送船二隻からなるチリ第一・第二戦隊と遭遇。

ウニオンは追撃を振り切って離脱に成功するものの、戦闘海域に残ったワスカルは奮戦するも有効射程距離外からの敵装甲艦の砲撃で痛打を浴びせられ続け、遂にはグラウ提督が戦死。

最後の手段としてラム攻撃を敢行するも失敗し、グラウ提督より指揮を引き継いだエリアス・アギーレ少佐も戦死するにおよび海戦開始より一時間半あまりの激闘の末に遂に降伏するに至る。(アンガモス海戦

この折に自沈処置が試みられたがチリ側によって阻止されてワスカルは拿捕される事となり、一ヶ月後、チリ海軍に編入されかっての同胞達と対決する事となる。

艦長:ミゲル・グラウ少将(戦死)

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