概要
日本海軍の練習巡洋艦である。香取型練習巡洋艦のネームシップ。艦名は、千葉県の香取神宮に由来している。
本型は、1938年度計画において2隻の練習巡洋艦を建造することになった。香取は1938年8月24日に、三菱横浜造船所で起工され、1939年3月31日に練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ「香取」、「鹿島」の艦名が与えられるた。「香取」は同年6月17日に進水し、1940年4月20日に竣工した。建造費を節約するため、商船構造を採用している。また、同年5月31日には三菱横浜船渠で姉妹艦「鹿島」が完成した。
戦歴
2隻は竣工直後練習艦隊に編入、8月に昭和15年度の遠洋航海に出発し、江田島~大湊~大連・旅順~上海を歴訪する。しかし風雲急を告げ、9月20日に前期航海のみで中止が決定、これが日本海軍最後の遠洋航海となった。
香取は1940年11月15日に第1潜水戦隊旗艦となった。1941年5月1日には第六艦隊(潜水艦隊)旗艦となり、司令長官清水光美中将が乗艦した。11月24日に日本を離れた香取はトラック経由で12月5日にクェゼリンに着き、そこで太平洋戦争開戦を迎えた。大戦中は主にトラック泊地にあって潜水艦作戦の支援に当たった。
1942年2月1日、ヨークタウン級空母の2番艦「エンタープライズ」と1番艦「ヨークタウン」はマーシャル諸島とギルバート諸島に空襲を敢行した。「エンタープライズ」搭載機による魚雷攻撃はすべて外れたが、香取は至近弾と機銃掃射で死傷者を出し、清水中将も重傷を負った。2月9日にクェゼリンを出発、16日に横須賀へ戻って修理を受けた。3月16日、清水中将の後任として小松輝久中将が着任し、引続き香取を旗艦とする。 呉に移動後、4月16日に再び日本を離れ、4月23日にトラックに到着した。なお日本出発時は水上機母艦(甲標的母艦)「千代田」が香取に同航していたが、4月18日に米空母「エンタープライズ」等によるドーリットル空襲が行われたことに鑑み、千代田は香取と別行動をとった。 5月3日、香取はクェゼリンへ到着する。6月上旬のミッドウェー海戦では、指揮下の伊号第一六八潜水艦が空母「ヨークタウン」を撃沈している。 8月に香取は横須賀に戻ってドック入りし、それからトラックに向かった。トラックには1943年3月まで留まり、一度横須賀でドック入りした後5月には再びトラックに戻った。6月、第六艦隊司令長官は小松中将から高木武雄中将にかわり、引き続き、香取を旗艦とした。
最期
その後はクェゼリン失陥のため旗艦任務を解かれ、海上護衛総隊所属となる。
1944年2月17日、駆逐艦「舞風」、「野分」、そしてトラックからの引揚者600人あまりを乗せた特設巡洋艦「赤城丸」とともに第4215船団を編成、内地へ帰還する予定であったが、出航直後にトラック島空襲に巻き込まれてしまう。
午前5時から6時にかけて二度の空襲を受けるも、被害はなく船団は6時30分に環礁からの脱出に成功する。その直後より断続的に米艦載機部隊の攻撃を受ける。8時30分の空襲までに舞風に3発、赤城丸に1発、香取は7発の命中弾を受けた。8時30分より手負いの船団に米空母「ヨークタウン」、「エンタープライズ」、「エセックス」、「キャボット」の攻撃隊が相次いで襲来。舞風はさらに1発の命中弾を受け機関室が満水、航行不能となる。赤城丸も5発以上の命中弾を受け炎上、まもなく弾薬に誘爆して大爆発を起こし、総員退艦が発令された。香取もさらに3発の命中弾を受けた。この時点で香取はすでに11発の命中弾を受けていたが、脆弱な商船構造であるにもかかわらず、未だ航行能力を有しており、黒煙を吹き上げながらも赤城丸生存者の救助に当たった。その後も船団は断続的な空襲を受け、香取は12時15分までにさらに爆弾3発、魚雷3本を受け、火災を発生した。
12時15分、船団は最新鋭戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」擁する第50任務部隊に捕捉される。
野分のみは辛うじて離脱に成功したものの、航行不能の香取と舞風は圧倒的優勢な敵水上部隊の前にになすすべなく撃沈された。香取からは3艇の救命艇が脱出したが、いずれも米艦載機の攻撃をうけ撃沈された。
生存者なし、文字通りの全滅という凄絶な最期だった。上記の戦闘経過も米軍側の記録に基づいており、細部では異なる可能性もあるが、もはや確かめるすべはない。
1944年3月31日、香取はトラック島空襲で沈没した「阿賀野」、「那珂」、「舞風」、「文月」等と共に、 香取型練習巡洋艦、軍艦籍から除籍された。
余談(継承艦「かとり」)
戦後、海上自衛隊の幹部候補生学校卒業後の初任幹部の実習訓練として内地巡航と遠洋航海を実施するための練習船「かとり」が1968年に就役した。(1998年除籍)
因みに後継艦はかしま型練習艦「かしま」(現役)である。