概要
日本海軍の練習巡洋艦である。香取型練習巡洋艦の3番艦。艦名は、福岡県の香椎宮に由来している。
1940年8月30日、香椎、駆逐艦「谷風」と「野分」等に艦名が与えられる。10月15日、進水。1941年7月15日に竣工(駆逐艦舞風と同日)されたが、本来の建造目的である練習航海には1度も使用されなかった。太平洋戦争開戦後はマレー上陸作戦の護衛任務など、南方攻略作戦に参加した。1942年2月、連合国軍艦隊はいまだ巡洋艦数隻を保持していた。小沢中将は対水上艦戦闘を想定して第二護衛隊に属していた軽巡「由良」を主隊に編入、それまで主隊だった香椎を第二護衛隊に編入する。2月11日、第二護衛隊はスマトラ島攻略を目指す輸送船14隻と共にベトナム・カムラン湾を出撃した。2月下旬~3月上旬、日本軍輸送船団撃滅を企図するABDA連合国艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦、および南雲機動部隊の掃蕩作戦によって東南アジア方面から一掃され、日本軍輸送船団の脅威は取り除かれた。
その後、一時的に練習艦として使用。ただし、本来の目的である長距離の練習航海に就く機会は無かった。
最期
1944年5月3日、海上護衛総隊に編入され、同年11月15日、香椎と海防艦で第101戦隊(渋谷紫郎少将)が編成され、香椎はその旗艦となった。同年11月17日、香椎はヒ80船団を護衛してシンガポールを発ち、12月4日に長崎に着いた。12月19日、第101戦隊はヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出発した。12月25日に高雄に着き、そこで多数のタンカーが船団に加わったがフィリピンに向かう船とは別れた。船団は12月27日に高雄を出発し、1945年1月4日に仏印のサン・ジャックに到着した。
第101戦隊は、サン・ジャックからはヒ86船団を護衛し内地に戻ることになった。この船団はシンガポールから北上して来ていたもので、4隻のタンカーと6隻の貨物船からなっていた。船団は1月9日に出発したが、このとき多数の空母を含むアメリカ軍第38任務部隊が南シナ海に侵入していた。ヒ86船団は1月11日にキノン湾に仮泊し、翌日キノン湾を発ち北上したが、その日に船団は第38任務部隊による空襲を受け壊滅した。香椎は第38.3任務群(空母エセックス、タイコンデロガ、ラングレー、サン・ジャシント基幹)による空襲により爆弾2発が命中し、続いてさらに爆弾3発と魚雷2本が命中して、沈没した。