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概要編集

 香取型登場以前の日本海軍は旧式化した巡洋艦を候補生の練習艦として使用してきたが、1930年代になって旧式艦の老朽化や他用途への転用、海軍兵学校の教育期間短縮による卒業生(候補生)の増加などのため練習専用の巡洋艦を建造することとし、1938年本型の2隻が建造されることになった(後の1939年に「香椎」が、1940年には「橿原」の建造が追加された)。こうして、香取型は共に横浜三菱造船所にて建設・竣工された。


 本型は、要求性能として乗員の他に少尉候補生が375名が居住でき、航海に不慣れな候補生のために速力よりも外洋での航海性能を重視して安定した船体形状を採用していた。また、候補生の実習のために艦橋や居住区は大きめに設計され、武装面においても敢えて最新型ではなく艦隊で広く使用されている兵器を多種多様に搭載された。機関においても本邦の軍艦には珍しい蒸気タービンとディーゼル機関を組み合わせた推進形式となったが、これは建造費用の予算上制限もあってのものである。

 船体形状は水面から乾舷までが高い短船首楼型船体で凌波性の良い軽いクリッパー式艦首を採用されていた。これは、まだ航海の経験の浅い士官候補生達が外洋の荒波にもまれて疲弊しないために充分な船体安定性と復原性能を持たせるためである。そのため、船体サイズは全長が133.50mに対し全幅が15.95mと幅広の安定型となった。また、安定化のために船体下部に800トンのバラストを積み込んだが、これは生活用の真水や燃料のタンクであり無駄な重量では無かった。

 練習巡洋艦である本型特有の事情として、講義室や候補生を集めて実習を行うために居住区や艦橋、甲板に広いスペースが要求された。そのため従来の軽巡洋艦のような軽量な三脚型マストの基部となる低い艦橋構造ではなく、箱型艦橋と簡素な三脚式の前部マストとなっている。

 また、武装に関しても敢えて武装を減らして容積の確保に重点を置いた設計となっていた。このために主武装である「三年式 14cm(50口径)速射砲」は連装型の砲塔で計2基4門だけで、前部甲板上に1番主砲塔が1基配置である。この砲は、伊勢型戦艦から軽巡洋艦「天龍型」や「球磨型」、「長良型」、「川内型」、「夕張」の主砲に日本海軍で広く採用されていた優秀砲で、候補生が現場で実際に使用するために旧来から海軍で使用されてきたこの砲を採用した。砲塔型式は夕張と同じく連装砲塔式にした。その性能は38.0 kgの砲弾を仰角35度で20,574mまで届かせる事ができた。俯仰能力は仰角35度、俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右150度の旋回角度を持つ。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に機力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分6発であったが、熟練した砲員なら毎分10発が可能である。

 高角砲は広く日本海軍で使用された「八九式 12.7cm(40口径)高角砲」を採用した。この砲は23.0 kgの砲弾を仰角45度で14,800m、最大仰角90度で9,400mの高度まで到達できた。旋回と俯仰は電動と人力で行われ、左右方向に70度旋回でき、俯仰は仰角90度、俯角7度であった。発射速度は毎分8~14発だった。これを連装砲架で1基2門を搭載した。他に近接火器としては「96年型 25mm(60口径)機銃」を連装砲架で艦橋の両脇に1基ずつ2基(3番艦「香椎」のみ4基)、53.3cm水上連装魚雷発射管を2基搭載した。他に儀礼用に5cm単装式礼砲4基が搭載された。尚、1944年4月に「鹿島」と「香椎」は改修を受け、12.7cm連装高角砲は2基、25mm機銃は三連装砲架で4基に強化され、他に爆雷兵装の強化と22号電探の搭載が行われた。同時に魚雷発射管が撤去されている。

 船体中央部には直立した1本煙突が立てられたが、公試時に煤煙が艦橋に逆流したため、煙突の高さを更に2m伸ばして解決した。この改良によりさらに均整のとれた外観となった。煙突の後方は水上機の運用スペースで中心線上にカタパルト1基が設けられ、その下は艦載艇置き場で無駄なスペースを省いた。露天配置の水上機と艦載艇は後部三脚マストを基部とするクレーン1基により運用された。後部マストの後方に副武装として「八九式 12.7cm(40口径)高角砲」はカバーの付いた連装砲架で後向き1基が配置され、後部甲板上に2番主砲塔1基が配置された。舷側甲板上には53.3cm魚雷発射管片舷に1基ずつ計2基が設置され、その上には客船のようなプロムナード・デッキを設けており舷側には上下三列に丸い舷窓が並ぶ。

 その他、海外航海の際に行う外国歴訪のため儀礼上長官室を立派な内装にしているなどの特徴もあった。しかし、竣工した時には既に時勢が悪化しており、遠洋航海で欧米に派遣されるような事は一度もなかった。


 その後、太平洋戦争前に3隻が就役していたが、実際に練習艦隊を組んだのは「香取」と「鹿島」の2隻のみで海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校・海軍軍医学校の士官候補生を乗せた昭和15年度練習航海の1回のみで時世を配慮して日本近海での練習航海となった。これさえも8月17日に新編なった第4艦隊と第6艦隊の旗艦として使用すべく練習航海を大連から上海に至る航路で打ちきられてしまった。4番艦「橿原」は不急艦として建造中止となり、実際に建造されたのは3隻であった。同大戦時には戦闘能力の低さから後方の司令部として使用され、「香取」の戦没後に「鹿島」と「香椎」は対潜掃討艦に改装されて使用された。


同型艦編集

No艦名工廠起工進水竣工戦没
一番艦香取横浜三菱1938/08/241939/06/171940/04/201944/02/17
二番艦鹿島横浜三菱1938/10/061939/09/251940/05/311947(解体処分)
三番艦香椎横浜三菱1940/05/301941/02/141941/07/151945/01/12
四番艦橿原横浜三菱1941/08/23(未成)

関連タグ編集

練習巡洋艦 軽巡洋艦 大日本帝国海軍

香取型 香取(艦隊これくしょん)

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