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要項

エルンスト・リンデマン。(1894年3月28日~1941年5月27日)

軍人。大佐。


経歴

1894年3月28日、アルテンキルヘンに誕生。


1913年4月1日、見習学生としてドイツ帝国海軍に入隊。


1914年4月、兵学校入校。


海軍参謀部・艦隊部門勤務、戦艦ハノーヴァー勤務、バルト方面海軍司令官付き参謀、戦艦エルザス次席砲術士官、練習艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン勤務、海軍砲術学校指導教官、装甲艦アドミラル・シェーア砲術長、海軍参謀部作戦課勤務、海軍最高司令部教育部長、砲術学校長を経て、1940年春に戦艦ビスマルク艦長を命じられる。(1938年に大佐に昇進)


8月24日、ビスマルク就役。


9月14日、ビスマルク、ハンブルクを出港し、ゴーテンハーフェンにて各種テストを受け、未完了の各部位の最後の工程を行う為に12月9日、ハンブルクに帰港。


1941年1月24日、ビスマルク工事完了。


3月6日、ビスマルク、ハンブルクを出港し、17日、ゴーテンハーフェンに到着。以後、訓練を行う。


4月28日、リンデマン、ビスマルクの出撃準備が完了した事を上層部に報告。


5月5日、姉妹艦ティルピッツと同じくビスマルクも総統ヒトラーの査閲を受ける。


12日、艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス大将をはじめとする艦隊司令部・幕僚団56名がビスマルクに乗組む。


19日、ビスマルク、重巡洋艦プリンツ・オイゲンは駆逐艦Z23フリードリヒ・エックホルト、後から合流した駆逐艦ハンス・ロディ、掃海艇の護衛のもとゴーテンハーフェンを出港。(掃海艇はベルゲンまでは同行せず)


21日正午前、艦隊はベルゲンに到着。プリンツ・オイゲンと駆逐艦に燃料補給後の1930時、通商破壊戦である「ライン演習作戦」の為に出撃。


22日0400時に駆逐艦を分派。


23日1922時にデンマーク海峡にて英重巡洋艦サフォークに発見、追尾され、2030時には重巡洋艦ノーフォークも加わる。


24日、英巡洋戦艦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールズの迎撃を受けるもフッドを撃沈し、プリンス・オブ・ウェールズを撃破するも損傷で艦首に2000tの浸水、それによる全部燃料タンクの1000tの重油使用不能による燃料欠乏によりビスマルクは作戦を中断してサン・ナゼールに向い、プリンツ・オイゲンは通商破壊の作戦続行の為に分派。


25日、英重巡艦の追尾を振り切り、リュッチェンスの長文の戦況報告の無電の失態も、英側のビスマルク座標特定の計算ミスで、それに気付くまでの七時間英艦隊が北方に転じた為に英艦隊を振り切れるかと思えた矢先、サン・ナゼールより700海里の地点で26日、哨戒中のカタリナ飛行艇に発見され、英空母アーク・ロイヤルフェアリーソードフィッシュ雷撃機の攻撃で舵が固定され、航行の自由を失う。

夜中から朝までの英駆逐戦隊の襲撃を受けた後、27日、英戦艦キング・ジョージ5世ロドネイ、重巡洋艦ドーセットシャー、ノーフォークの攻撃を受けビスマルクは撃沈され、リンデマンも艦と運命を共にした。


逸話

虚弱体質の為にドイツ帝国海軍には見習学生扱いで入隊したが、努力して兵学校に入校している。だが、この経歴は彼の軍人生活に付き纏ったと言われる。

努力家のリンデマンを認めた同期生からは将来は砲術学校の校長になれると評されたが、リンデマンは一個戦艦戦隊は指揮をしてみたいと答えたと言う。


ドイツ海軍砲術の権威として名を知られており、彼のビスマルク艦長就任はベストな人事だと評価されたという。


海軍での勤務態度は真面目で熱意があり、任務に対する姿勢は高評価を得た。だが、悪い意味での出世至上主義者ではなく、利己的でなく、協調性もあったとされ、また部下を気遣い、その要望を聞こうとする姿勢や人柄から、絶大な部下からの信頼と人気を得ていた。

若い水兵の悩みを聞いたり、声をかけた夜間当直の兵に、士官で人間らしい言葉をかけてくれたのはリンデマンだけだったと後に述懐されたり、最期まで彼に従った直属伝令の二等水兵は彼の退艦命令を拒んでいるようだったなど人望厚かった彼の人柄を示すエピソードは多いとされる。


ビスマルクのような力強い軍艦を「彼女」(船は女性形代名詞)と呼ぶのは相応しくないので「彼」と呼ぶように乗組員に求めた、という。


ハンブルクで就役した潜水艦U556の艦長ヘルベルト・ヴォールファルト少佐は艦の就役式を軍楽隊で祝いたいと思っていたが、ある日、U556がビスマルクに襲いかかる飛行機・魚雷を防ぎ、ビスマルクを曳航するイラスト付きの養子縁組証書を携えてビスマルクのリンデマンを訪ね、U556がビスマルクの親代わりになるので、ビスマルクの軍楽隊で就役式を祝って欲しいと願ったところ、リンデマンは喜んで承認したという。(後にU556はビスマルク攻撃隊を発艦させつつあるアーク・ロイヤルを攻撃する機会を得るが、通商破壊で既に魚雷を撃ち尽くしていた為にビスマルクを守るとの誓約を果たす事が出来なかった)


ユーモアリストであり、協調性のあるビスマルク艦長であるリンデマンと、ユーモアを解さない内向的でペシミズム気味な艦隊司令長官のリュッチェンスとの間は良好とは言えないものがあったと言われる。


デンマーク海峡海戦で損傷し離脱しようとするプリンス・オブ・ウェールズの追撃をリンデマンは希望したが、本来の通商破壊作戦遂行の為に不必要な戦闘を望まなかったのかリュッチェンスは却下したと言われる。後知恵ではプリンス・オブ・ウェールズを撃沈し、そのまま引き上げるのがベストであったが、一戦艦の戦術的勝利を考える艦長のリンデマンと通商破壊による戦略的勝利を考える艦隊司令長官のリュッチェンスの立場の相違とも言える。


英戦艦は二本煙突が多いので、ビスマルクに偽装煙突を取り付ける話が持ち上がった。

この折に当直非番の者に偽装煙突から煙を出す為に副長室に喫煙申告せよ、という内容をリンデマンはスピーカーで艦内放送させ、リュッチェンスが生真面目にも客観的にビスマルクの厳しい状況を訓示した為に停滞しがちであった乗組員の士気を高めた。

結局、偽装煙突は設置される事は無かったが、一説にはリュッチェンスがしても無駄だと却下したとも言われる。


リンデマンの最期の姿は、赤腹を見せたビスマルクの艦首旗竿で彼の直属伝令のニ等水兵を連れ、海上に漂う乗組員に敬礼する姿であったと言われる。目撃した兵の一人は、そんな事は本の中でしかないものだと思っていた、と綴ったと言う。


日本海軍の駐在武官が装甲艦アドミラル・シェーアを見学した際、砲術長時代のリンデマンから艦尾の魚雷は不要と思うが日本海軍はどうしているか尋ねられ、武官は日本海軍では戦艦は魚雷装備を廃していると答えると共に、シェーアは戦時では通商破壊に赴くと思われるので魚雷も必要では、と尋ねると、シェーアが通商破壊に出撃するような現状の状態で闘う事はドイツの死を意味するとリンデマンは答えたと言う。

その後、その武官がビスマルクを訪問する機会があった折、リンデマンに艦長に就任した事を祝うと共に魚雷装備の無い戦艦で満足では、と聞くと、希望に反して戦争は始まってしまった。あの時はあのような事を申し上げたが、今では積める物は何でも積んでいきたい気分です、と答えたと言われる。


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