要項
フーベルト・マリア・オットー・シュニーヴィント。(1887年12月14日~1964年3月26日)
軍人。上級大将。
経歴
1887年12月14日、ザールルイスに誕生。
1907年、海軍兵学校に入校。
第一次世界大戦では水雷畑を歩み、終戦時は駆逐艦S138艦長の大尉であった。その後、第四水雷艇半隊司令、第二水雷艇隊司令、艦隊参謀、軽巡洋艦ケルン艦長、艦隊参謀長、国防省海軍部長を歴任し、第二次世界大戦勃発の折は軍令部長の少将であった。
1940年1月、中将に昇進。
9月、大将に昇進。
1941年6月、戦死したギュンター・リュッチェンス大将の後任として艦隊司令長官に就任。
1942年7月2日、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーを旗艦として戦艦ティルピッツ、駆逐艦四隻、水雷艇二隻からなる第一戦闘グループを率いてPQ17船団攻撃の為の「レッセルシュプルング作戦」にトロンヘイムから出撃。その折に駆逐艦三隻は座礁。
3日、アルタ・フィヨルドにてオスカー・クメッツ中将率いる装甲艦アドミラル・シェーア、駆逐艦六隻と合流。
5日、艦隊を率いて出撃するも、ドイツ海軍出撃に過剰反応した英側は船団を分散させた為に空軍・Uボートの好餌となり壊滅状態に陥っており、例え接敵しても戦果は少なく、逆に英本国艦隊と接触して損害を受ける恐れもありと判断した軍令部の命により虚しく帰投する。
1943年3月、北部方面海軍司令長官も兼任。
1944年3月、上級大将に昇進。
7月、総統顧問官に就任。
1945年4月30日、退役。
国防軍最高司令部裁判にかけられるも無罪となり、1948年10月、釈放。
1964年3月26日、死去。
逸話
秀才型の有能な人物であったと言われる。
対英戦に備えた海軍拡張政策「Z計画」ではヘルムート・ハイエ中佐、ヴェルナー・フックス少将の戦艦では英国には勝てないので、その通商破壊を目的とした小型艦、Uボートを主力とした艦隊を構築すべきだ、との急進的な意見に他の提督達と同様に戦艦を中心とした艦隊建造を支持している。
軍令部長時代は艦隊司令部と軍令部の調整役を担い、艦隊司令長官ヴィルヘルム・マルシャル大将が装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを間接的に援護する為に出撃した折に英軽巡洋艦ニューキャッスルを攻撃せずに退避した事を厳しく批判する軍令部作戦課長クルト・フリッケのマルシャル宛ての文書の表現を和らげたり、海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥にそれは後方からの批判であり、マルシャルには公式文書で無く口頭でその批判を述べるだけに留めるように進言し、文書をお蔵入りにした。
またナルビクの陸軍援護の為にハールシュタを中心とした英艦隊を攻撃する「ユーノー作戦」において軍令部と艦隊司令部のパイプ役の西部方面海軍司令長官アルフレート・ザールヴェヒターの命令がハールシュタに艦隊が突入する事と規定されている事に不安を感じ、軍令部を訪れたマルシャルに軍令部の命令はそこまで特定して無い事を伝えている。
艦隊司令長官に就任したが、直接艦隊を指揮したのは「レッセルシュプルング作戦」ぐらいであり、彼が艦隊司令長官に就任して前半は戦艦部隊司令長官オットー・チリアクスが、後半は巡洋艦隊(後に戦闘グループと改名)司令長官オスカー・クメッツ、エーリヒ・バイなどが艦隊の直接指揮を執っている。
シュニーヴィントが北部方面海軍司令長官も兼務するようになると艦隊司令部はキールに移動し、ノルウェーに集結した艦隊主力は戦闘グループにまとめられ、艦隊司令部の指揮の下、戦闘グループ司令長官が現場の指揮を執り行うようになる。
北海の極夜での対ソ援助船団攻撃への主力艦投入には懐疑的であった。
巡洋戦艦シャルンホルストが最期を遂げた「東部戦線作戦」では、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が主力艦を含む艦隊で船団を攻撃する事を総統ヒトラーに約束した手前、駆逐艦が攻撃を担当し、シャルンホルストは安全な後方からそれを援護するというバイ提督の作戦を肯定し、作戦成功が予想される旨をデーニッツ提督に報告したが(無線傍受により有力な敵艦隊が行動している情報は入っていたが信用していなかったようである)、天候の悪化で駆逐艦の活動が著しく阻害される事が分かると作戦中止を軍令部に求めている。
だが、デーニッツと軍令部はその弱腰をなじるように作戦を決行を命令し、またシャルンホルストによる船団攻撃を望んでいた為にシャルンホルストはバイ提督と共に沈む結果となった。