エリトリア(通報艦)
えりとりあ
1935年7月25日起工、1936年5月進水、1937年2月10日竣工。
紅海艦隊
1940年6月10日のイタリアの戦線布告時、彼女はエリトリアのマッサワを母港とする紅海艦隊に所属していた。
しかし紅海とイタリア本国の間にあるスエズ運河は英国の最重要拠点であったため、イタリアとイギリスが戦争状態になったことで紅海艦隊は母国への帰還が不可能になり孤立してしまった。
そのためしばらくはマッサワに引きこもりつつ、せっせと通商破壊をしていた。
状況が動いたのは1941年2月。東アフリカの趨勢が連合国に傾いたため、紅海艦隊の存在も脅かされていた。
そのため艦隊司令部は戦闘力に劣る通報艦、仮装巡洋艦、大西洋での活動が期待できる潜水艦をマッサワから脱出させることを決断する。
前述した通りスエズ運河は通れないため、イタリア本国への帰還は不可能。そこで東の同盟国である日本を目指すことを決める。
マラッカ海峡などの難所はあるが地中海などに比べて警戒線は緩く、十分にワンチャンあった。
かくしてエリトリア一世一代の大逃げが始まったのである。
エリトリアはラム級仮装巡洋艦のラム1とラム2とともに2月20日に出航、怪しまれないようバラバラに分散してイギリスの哨戒網をすり抜け、インド洋への脱出を成功させた。
一週間後、ラム1はモルディブ沖でニュージーランド海軍に貸与中のイギリス海軍の軽巡洋艦リアンダーに捕捉され、轟沈してしまう。一方のエリトリアとラム2は3月に日本に接近するも東京のイタリア大使館から「日本はいまだ中立国であり、交戦国に属する軍艦が入港することに同意できない」という電文が届く。
その電文を受け「自分たちは機関部にトラブルを抱えており、その修理のために寄港する」と日本側に通達。日本側もこれを受け入れ、紆余曲折ありながらも神戸港へと入港した。
ちなみにエリトリアたちと別行動をとっていた潜水艦は当時ドイツ勢力下にあった仏領ボルドーに全艦到着に成功。通商破壊を行ったほか、ジブラルタル海峡を突破してイタリアに帰還した艦もある。
一方でマッサワに残った駆逐艦はイギリス空海軍の連携で全艦遺棄され、紅海艦隊は消滅した。
イタリア極東艦隊
当初は日本を拠点に通商破壊をする予定だったが、当時の日本はまだ中立国であっため、イタリア軍籍の艦である彼女らの活動を認めるわけにもいかず、しばらくはラム2改めカテリア2と一緒に神戸港で日本海軍の監視の下ニート生活を謳歌していた。
その後日本滞在の名目であった機関部の修理が完了し、1941年8月末から9月にかけてカテリア2と共に神戸港を出港。中国のイタリア租借地であり、アンツィオ級施設艦レパントと砲艦エルマンノ・カルロットが属するイタリア極東艦隊の母港がある天津に向かうこととなった。
天津到着後もこれと言った活動はせず、またニート生活をすることに。
しかし1941年12月の太平洋戦争開戦により公式に日本から援助と行動の自由を認められ、そのままイタリア極東艦隊に加わる形となる。
戦闘力がほぼ皆無の通報艦であるため、イタリア商船の護衛や枢軸国潜水艦の修理・補給を主な任務とした。日本海軍の快進撃により制海権が確保された天敵のいない海でのんびりと仕事に励み、ペナンとシンガポールと日本を何度も往復した。
しかし1943年9月8日、イタリア本国で政変が起きムッソリーニが失脚。イタリアが連合国と休戦状態になったのだ。
これによりエリトリアの立場は一変。本国が休戦したなら武装解除しなければいけないのだが、そうすると日本軍に鹵獲される可能性が出てきたのである。
そのため、イタリア海軍はアジアで活動するイタリア海軍部隊に対して可能であれば中立国に脱出し、不可能であれば艦艇の自沈を命じる電文を送り、それを受けた僚艦のカテリア2とレパントは即座に自沈を決断している。
一方、エリトリアはイタリア籍の大型商船カッペリーニ号の護衛任務でシンガポールからスマトラ島北部のサバンへの航海の途中でこのニュースを聞き、任務完遂後セイロン島のコロンボへ向けて即座に逃げた。エリちゃん二度目の逃亡劇である。
日本海軍の追撃を受けながらスマトラ沖を通過、9月14日になんとかセイロン島に到着した。ちなみにこの時エリトリアの追撃を行なっていたのは艦これをプレイする提督諸氏にはお馴染みの軽巡洋艦球磨である。
セイロン島コロンボに着いたエリトリアは同地で武装解除し、大戦終結までのんびりと過ごすこととなった。
しかし彼女の戦争はまだ終わっていなかったのである。
仏太平洋艦隊通報艦フランシス・ガルニエ
セイロン島到着後は本国に帰ることなく、1947年にイタリア海軍で除籍されるのだが、翌1948年2月12日に戦時賠償艦としてフランスに譲渡される。
譲渡後は艦名をフランシス・ガルニエに改め、一度オーバーホールされた後仏極東部隊に編入されインドシナ戦争に参加。
インドシナ戦争後は太平洋艦隊に編入され、仏海外領を警備する仕事に就いた。親善航海としてかつての母港である神戸港に寄港をしたこともある。なおイタリアには帰れなかった模様。
そして就役から30年経った1966年に軍務を全うし、フランス海軍で二度目の除籍。
同年、太平洋ムルロア環礁にて航空攻撃の標的艦となり沈没。その波乱万丈な生涯に幕を下ろした。
戦時中、イタリア海軍は食糧としてマカロニを日本海軍に要求していた。
日本海軍は枢軸国との交流のため、シンガポールに武官府を置いており、そこに所属していた駒月勇という人物がシンガポールでマカロニの調達をしていたのだが、戦争が押し迫ってくるとマカロニの調達が不可能になってしまった。
そこで駒月はやむなくうどんを「ジャパニーズ・マカロニー」としてエリトリアに提供した。案の定というべきかエリトリアからは「満足の風ではなかった」という反応が帰ってきた。
イタリアの降伏時、エリトリアが逃走したことを聞いた駒月は「マカロニ探しであんなに苦労したのに一言もことわりもなく逃げていくとは心外だった」と愚痴をこぼしたという。
フランス海軍入籍後はフランシス・ガルニエという艦名に改名したがこの艦名が付けられた艦としては二代目にあたり、初代は第一次世界大戦後にフランス海軍が建造した砲艦フランシス・ガルニエ。
由来はメコン川の探検等で功績を残した海軍士官フランシス・ガルニエだと思われる。
ネタに満ちた生涯を送った彼女であるが一部では半ばネタ混じりで艦これへの参戦を希望する声がある。
現在実装されているイタリアン艦娘たちよりも日本に縁がある艦なので可能性は0ではないだろう。
戦闘力の低い通報艦という艦種(といってもエリトリアの砲撃力は睦月・神風型駆逐艦と同程度はある)だが艦これには非戦闘艦が集まる特務艦娘というカテゴリがあるのでその点は問題にはならない。
問題は知名度が低すぎる点か。