かつてイタリア海軍が保有していた植民地通報艦はエリトリア(通報艦)を参照
概要
正式名称エリトリア国。面積11万7600平方km(北海道と九州をあわせたくらい)、
人口550万人(2017年)、首都はアスマラ。通貨はナクファ(1米ドル=15ナクファ)。
黒人とアラブ人の混血が多くを占め、イスラム教徒が多いがキリスト教徒もそれなりの数いる。
もともとイタリアの植民地だったため、文化的にもヨーロッパの影響が見られる。
「ベレベレくん」というヒトコブラクダの公式ゆるキャラがいる。
2011年に南スーダンが独立するまでは、アフリカでは最も新しい独立国であった。
歴史
成立
もともとこのエリトリアの地は、エジプトの支配下であった。当時のエジプトは、オスマン帝国が名目上の宗主国であったが、1850年以来、ムハンマド・アリーによって事実上、独立状態にあった。ムハンマド・アリーの孫、イスマーイール・パシャは、エジプトをさらに拡大させるため、エチオピア帝国と戦争状態に入った。当時のエジプトは、急速な近代化を進めており、イスマーイールはエチオピアに勝てると確信していた。イスマーイールは、北東アフリカ全土にまたがる広大な帝国を築く事を目指しており、その国力でもって、エジプトに干渉してくるヨーロッパ列強に対抗しようとした。
しかし、当時のエチオピア皇帝ヨハネス4世は、稀代の戦略家であり、装備に勝るエジプト軍をボコボコにして完勝した。
イギリスの仲介により、エチオピアはエリトリアの地を獲得。しかし、その直後にイタリアがエリトリアの地を占領し、イタリア領エリトリアが成立。(イタリアの行為は条約違反だったが、イギリス得意の外交戦術により黙認された)
エチオピア介入
第二次世界大戦の後、敗戦国イタリアは植民地を手放したため、国連により、エリトリアはエチオピア帝国の領土となった。ただし、エリトリアはもともとエチオピアとは異なる文化であったため、自治権の強い連邦制という条件をつけた。
しかし、エチオピアはその条件を無視し、エリトリアの自治権を奪ったため、エリトリアでは抗議行動が活発化。エチオピアはこの抗議を徹底的に弾圧したため、キリスト教国家であるエチオピアに好意的だったエリトリア在住のキリスト教徒までもが、エチオピアに敵対するようになる。
独立
やがて1961年には独立戦争が勃発。戦争は30年に渡って続き、1991年5月29日に独立宣言。1993年4月、独立を問う住民投票が開かれ、ほぼ全会一致で独立が承認された。同年5月24日、正式に独立。独立後も、エチオピアとは国境紛争が起こったが、2018年に和解した。
情勢
独立以来、民主正義人民戦線イサイアス・アフェウェルキ大統領の独裁状態。
1997年5月に制定された憲法も施行されず、2001年12月に予定されていた国政選挙は無期限延期が続いている。政権批判への取締は厳しく行われており、外国のメディアは一切認められない。
国民に個人の自由は無く、学業や職業も全て政府に決められる。
また徴兵制を敷いており、対象は男女とも、徴兵期間は無期限である。また「ナショナルサービス」と呼ばれる勤労奉仕活動に従事させられることもある。
そのため「アフリカの北朝鮮」と称される。しかしインターネットは遮断されておらず、ネットを通じて外国を夢見た国民は出国を試みた時点で銃殺されてしまう。
エチオピア、スーダンとは国境を巡る一触即発の状態が続いているため治安や経済は不安定。
そのため日本の外務省も渡航中止を勧告。ちなみに日本大使館はケニアが兼轄。